徒然酒(つれづれざけ)
2008/07/11
No.1382
この内容は
旅行記 メキシコシティ / バハカリフォルニアへの旅
からの転載です。

4本
XX
07/11 メキシコ二日目、ティオティワカンと人類学博物館へ

朝食は、ホテルの日本食レストラン「弁慶」で戴きました。
ごはんがおひつで出てきましたし、お味も結構でした。
納豆付きとか目玉焼きつきが朝食券に追加料金で頼めるとメニューにありましたが、仲居さんが好きなのを選ぶように勧めてくれたので納豆付きにしたところ、追加料金の請求はありませんでした…ありがたいことです。

メキシコシティ HOTEL NIKKO MEXICO 弁慶にて
撮影データ OLYMPUS E-3 + ZUIKO Digital ED 14-35mm F2.0 SWD
rawデータ撮影後CAPTURE ONE LEホワイトバランスを適時選択して現像

今回の旅では、時差ボケ解消のためにメキシコシティ観光を入れてあります。
何回もメキシコに来ましたが、まだ一度も行っていなかったティオティワカン(テオティワカンとも書きます、TeotihuacAnですので)にまず行きました。

この内容は、メキシコ観光のツアーで、1万円のオプショナルツアーで下が、説明してくれた田中さんが詳しくて、とても良かったです。

場所はメキシコシティから50Km、車で1時間の距離です。

ティオティワカンは、7世紀に最盛期を迎え、人口は推定で20万人から30万人…広場の広さから推定しているみたいです…当時では他と比類することができない世界最大の都市でした。ティオティワカンの様式は、南米全体に影響がみられ、南米全体に強力な影響力を持っていた都市です。ただ、その後、急速に衰退したと考えられており、衰退後150年後には忘れ去られていたようです。原因はわかっていませんが、勝手に説明している人が多いみたいですね・・・(^^;

この都市は全体が漆喰で舗装されており、巨大なピラミッドから5kmに及ぶと推定されている広大な大通りのすべてが漆喰で固められ、赤に装飾されていました。また下水道が完備しており、水洗トイレも存在していました。

現在、月のピラミッド、太陽のピラミッド、死者の通りなどと呼ばれている名称は、15世紀にティオティワカンを再発見したアステカ人たちが名づけたもので、作られた当時の呼称は不明です。

ティオティワカンは、かつては、存在していた盆地全体にわたる大都市で下が、今はその中に3つの都市が存在しています。幸いに、月のピラミッド、太陽のピラミッドがあるあたりは畑であったため、発掘が進みました。

スペインが征服後、宗教も衰退してしまったため、ティオティワカンの遺跡全体に対して、破壊が進んだと考えられていますが、それ以前にはアステカ人その他の人々は、この地を大切に守っていたそうです。

ティオティワカンとは、アステカ語で、ティオ(神々)、ティワカン(場所)で、神々の場、神々の座所のような意味となります…聞いただけのうる覚えですが…

はじめは月のピラミッドの周辺で、発掘と修復がすすめられている場所を見学しました。

ここのところ一週間、ずっと天気が良くなかったそうですが、この日はいい天気でした。

ティオティワカン にて
下側の部分が遺跡部分、上側は修復部分です
下側の赤い部分は漆喰に赤く着色していた名残です
この都市はすべてが赤く着色されていました
赤は、血の色…生命の意味を持っていたのでは…という説明でした
この文明に限らず、南米の文明には共通の子テキストがあるから…とのことでした
ジャガーがほら貝を吹いています
ジャガーは、地上最強の動物と考えられていた動物で、地上の意味があるそうです
ほら貝は水を呼ぶものの意味で、下の3つの水滴は、天の三方位…かつては天の方角は3方位、地上は四方位で考えていたそうで、合計7方位が全世界の意味となるそうです。
マヤに至るまで、このような表現は同じで、雨を乞う当時の表現形態は一貫性があるそうです。
いけにえには子供が使われましたが、子供はよく泣くので、涙が雨を意味していたから…とのひとでした、
この壁画は本物で、レプリカではありません。
ティオティワカンも古い遺跡の上に拡大して建物が作られていました。
この部分は、どのように古い遺跡が埋められていたのかを示しています
新しい遺跡よりも古い遺跡の方が精緻に作られている場合もあり、時代の背景が見て取れるそうです
花のような紋章がティオティワカンの紋章ではないかと考えられているそうです。
理由はマヤ文字にあり、この紋章の4つの花弁の一つがないと、「不完全」という意味になるそうです。
つきり、完全という意味がこの紋章にはあるそうです。別な見解では、中心の丸がティオティワカン、その周りに影響を受けている人々という意味ではないかというものもあるそうです。
水洗トイレ跡…内部は下水道につながっています
ここが広いのは、水浴び場も兼ねていたからかも…とのことでした
ティオティワカンは水が豊富な場所で、至る場所に湧水があるそうです
四角い場所は、地上の意味があり、ここで政治的な話題などが話し合われたのではとのことです
このようなつくりだと、話し声だけで全員に声が届きます
段の部分は人が座る場所で、背景の広い場所は、なにか祭祀的なものが置かれていたのでは…とのことです。
上部の不思議な形のものは、天と地を表しており、世界の意味になるそうです
南米の様々に遺跡から同様なものが見つかっています
余談ですが、欧米人の女性がハイヒールで来るために、漆喰が壊されて大変だそうです
撮影データ LEICA M8 + ZUIKO Digital ED 14-35mm F2.0 SWD
rawデータ撮影後CAPTURE ONE LEホワイトバランスを適時選択して現像

ここから月のピラミッドに抜けます。

ティオティワカン 月のピラミッドにて
砂利が敷き詰められている部分は、かつては漆喰で舗装されており、赤く塗られていました
月のピラミッドや死者の通り、太陽のピラミッドは南北から正確に16度傾けられていていますが、理由は不明だそうです
砂利が敷き詰められている部分は、かつては漆喰で舗装されており、赤く塗られていました
全長は5Kmほどではないかという意見があるそうです
おそらく、ピラミッド群はティオティワカンの中心ではなかったのでは…とのことでした
ちなみに傾斜していて、雨は左右の下水道に流れ込むようになっていたそうです
月のピラミッドの上部構造
初期の発掘ミスでかなり壊れているそうです
最上位には木造の建築物があったようですが、遺構がなくどのようなものであったか不明です
月のピラミッドからみた死者の通り
これが真っ赤に染められた漆喰で舗装された道路でした…ずっと先まで…
撮影データ OLYMPUS E-3 + ZUIKO Digital 8mm F3.5 Fisheye
撮影データ OLYMPUS E-3 + ZUIKO Digital ED 14-35mm F2.0 SWD
rawデータ撮影後OLYMPUS STUDIO V2.1ホワイトバランス適時選択して現像

続いて、太陽のピラミッドに行きます

ティオティワカン 太陽のピラミッドにて
撮影データ OLYMPUS E-3 + ZUIKO Digital 8mm F3.5 Fisheye
撮影データ OLYMPUS E-3 + ZUIKO Digital ED 14-35mm F2.0 SWD
rawデータ撮影後OLYMPUS STUDIO V2.1ホワイトバランス適時選択して現像

お昼を近くのホテルの食堂で戴いてから、メキシコ人類学博物館行きました。

メキシコ人類学博物館にて
目を閉じることで死の世界を表現しているそうです
王を捕らえた勇者
相手の髪の毛をつかむことで、力関係を示します
マヤの表現は漫画チックです
偉大な人を捕らえることができる勇者という表現が使われているそうです
マヤの世界では王を処刑することがあっても、他の都市を征服することはなかったそうです
しかし、そうしたマヤの記録は西暦909年を最後に途絶えます
マヤ文明は909年を境として衰亡を辿りますが、その理由は分かっていません
先と同じ勇者が丁寧な対応でたたえています
相手は叔父ですが、戦いのために死んでいるのかもしれないとのことでした
マヤ最盛期の年代表記
数字を表わす表彰を、飾り付けて表現しています
その時代の文明の勢いで表現の装飾の量が変わるそうです
マヤの書籍のレプリカ
ほとんどの書籍がヨーロッパ人の無明により焼かれてしまいました
書籍のマヤ文字は、遺跡とに刻まれるものとは異なるそうです
紙はマヤ人たちが独自に発明していました
マヤの書籍はフルカラーです
目のぐるぐるは雲、歯の垂れているのは雨を示すそうです
下のカギのたちは水を示しています
この表現は、マヤに限らず南米の文明に共闘しています
置くの建物はティカルの遺跡のレプリカです
中には極彩色の壁画が描かれています
壁画の写真です
これはレプリカです
内部は三角形のアーチ、マヤアーチになっています
上部と右側の人の像の意味は不明だそうです
有名なヒスイの仮面です
2回組み換えが行われ、この形が最終系であるそうです
この根拠は以下の像がキーワードだそうです
有名なヒスイの仮面はこの王のものです
鼻は、生まれたばかりの時に板ではさみこの形に変形させると、生涯にこの形になるそうです
高貴な生まれを示すための変形で、マヤ文明全体の風習です
王の葬られていた墓です
5トンの石蓋で閉じられていました
石棺を完成させてから周囲を築いたと考えられています
アメリカのオークションに出展されていた遺跡の一部
どこのものか不明ですが、マヤの特徴があり、メキシコ政府が手に入れました
ひょっとしたら、アメリカ人による贋作の可能性があるかも知れないようです
今まで発見されているマヤのどの遺跡にも同じものがないからです
後期マヤ文明、衰退したマヤ文明に属するチッチェンイッツァなどに見られる生贄の台といわれているものです
中央のくぼみに生贄の心臓を置いたのでは…といわれています
ただし、実際には見た人がいないため、どのように使われていたのか不明です
この形式は、マヤ文明ではなく、後に勢力を伸ばしたティカル系の婚姻によるあ文化流入ではないかととのことでした
つまり、マヤ文明全体では、生贄の風習は、限定的であったかも知れないみということです
撮影データ OLYMPUS E-3 + ZUIKO Digital ED 14-35mm F2.0 SWD
rawデータ撮影後OLYMPUS STUDIO V2.1ホワイトバランス適時選択して現像

続いて、アステカです。

アステカは、マヤ文明と異なり、都市を征服して巨大化した帝国を築きました。
ただ、その征服は虫食いで、アステカ帝国に対抗する勢力も各地に残っていました。
スペインはそうした勢力と協力して、5万の兵の協力の下、アステカ帝国を滅ぼしたのでした。

現在のメキシコの国旗は、アステカの建国伝説…サボテンの上に留まる蛇を咥えた鷹があるところ…アステカの約束の地を意味しています。

ガイドの人がとても詳しくて、アステカの建国伝説の怪しい点をいろいろと教えてくれました。

アステカとは、アストランから来た人たちという意味です。
アストランがどこであるかはわかっていません。

アステカの民は、ユダヤ民族のようにさ迷い、隷従の後に、戦争で活躍し、後にティノティラトンを築く島に住まうことを許可され、その国の王と婚姻を結び、力をつけていきます。
はじめから、人をいけにえにする風習をもっており、世界を維持するためにと、他の都市国家/民族を征服しては生贄のなえとしていき、アステカ帝国を築きました。最盛期には太平洋から大西洋に至る大帝国でしたが、征服できない地域もあり、また、他の地域からは憎まれていたようです。そこをスペイン人が突き、反アステカ勢力を結集して、アステカ帝国を滅ぼしました。最後の戦いのときにスペイン人に味方した他の人々は5万人と考えられているそうです。

メキシコ人類学博物館にて
最盛期のアステカ帝国の図です
濃い茶色はアステカ帝国の支配が及ばなかった地域で別に国家や都市国家連合がありました
アステカ帝国が起きたのは、タカのマークがある島で、ティノティラトンが作られた島です
はじめにアステカ人が隷属していたのは、左上のピラミッドの国で、この湖の右下にいた民族との抗争でアステカ人が功績を上げたため、
アステカ人たちだけで島で暮らすことを認められ、この島に行きました
この島に行ったところ、アステカ人に伝えられていた、平たいサボテン(食べられます)の上に昼間に最強と考えられていた動物タカが蛇(雨を示します)を咥えている姿を見て、ここを約束されていた定住の地であると考えたといわれています。
ただ、アステカ人は支配を確立後にかなり努力して過去の歴史を改ざんしたようで、実際にはかなり恥ずかしい展開が過去にあったのでと教えてもらいました。
アステカ人たちが、元来いた土地アストロンを出るところの伝承を伝える古文書のレプリカです
アストロン以前は、不明です
アステカ帝国の首都、ティノティラトンに飾られていた象
夜に最強の動物、豹をモチーフにした空想の動物です
毛のように見るものは、こちらの文明解釈では水を示すものでないと理解しにくいそうで、ライオンの鬣ではないのでは…とのことでした
アステカ帝国の首都、ティノティラトンに飾られていた象
昼に最強の動物、鷹をモチーフにした象です
壊れているのが部分的なのは、像が多くてスペイン人が壊しきれないため、埋める方針に切り替えたためです
説明してくれているのはメキシコ観光の田中さんです
アステカの伝承を伝える石碑
生贄の心臓を入れた台
周りにはアステカに滅ぼされた都市国家が刻まれています
アステカのカレンダー
巨大で5mくらいです
実用的な意味はありません
中央は、現在の世界を示す五番目の神で、周囲の四角にに過去の4つの神が描かれています
この五つの神の構図が絵かが描かれると、地震を示し、世界の破壊と再生を示します
次の時期は示されており、2012年か2013年だそうです
アステカのカレンダーの復元イメージ
中央の神の両側に握られているのは心臓で、太陽の昇るときと沈む時に生贄を要することほ示しています
最も激しいときは、年間8万人が生贄にされました
当時のこの地域の人口は30万人と考えられてる時にです
アステカ帝国の首都、テティノティラトンです
この上にメキシコシティが作られ、しかも自然遺産になったため、遺跡発掘の可能性はありません
アステカ帝国の収税資料です
死者の皮をかぶっている姿の像です
アステカ帝国では、いけにえを捕らえた人は、いけにえの肉も食べました…食人です
死者の皮の像です
生贄の後です
子供はよく泣くので、雨のためのいけにえになりました
雨の女神です
下のぐるぐるは雨の意味です
撮影データ OLYMPUS E-3 + ZUIKO Digital ED 14-35mm F2.0 SWD
rawデータ撮影後CAPTURE ONE 4.2ホワイトバランス適時選択して現像

続いて、オルメカ文明です
この遺跡しかわかっていません
かなり大きなものです。

メキシコ人類学博物館にて
この像は、頭を変形させるバンドを付けています
扁平な頭です
この素焼きの像は、頭のバンドを外したものです
数字の表現は、後のマヤなどと同じです
撮影データ OLYMPUS E-3 + ZUIKO Digital ED 14-35mm F2.0 SWD
rawデータ撮影後CAPTURE ONE 4.2ホワイトバランス適時選択して現像

続いて、メキシコ湾岸文明です。
やはり、遺跡だけで、なにもわかっていません。

メキシコ人類学博物館にて
なんで笑っているのか…
頭もこのように変形させる習慣があったのかも
背中を見ると、子供を背負っています
雨/水の表彰はもう誕生しています
撮影データ OLYMPUS E-3 + ZUIKO Digital ED 14-35mm F2.0 SWD
rawデータ撮影後CAPTURE ONE 4.2ホワイトバランス適時選択して現像

他にいろいろと見てみました。
古代文明って、漫画チックなのでした…

メキシコ人類学博物館にて
ハクション大魔王って、メキシコ古代文明のパクリだったのでした
撮影データ OLYMPUS E-3 + ZUIKO Digital ED 14-35mm F2.0 SWD
rawデータ撮影後CAPTURE ONE 4.2ホワイトバランス適時選択して現像

結局、閉館まで見学していました。

メキシコ人類学博物館にて
撮影データ OLYMPUS E-3 + ZUIKO Digital ED 14-35mm F2.0 SWD
rawデータ撮影後CAPTURE ONE 4.2ホワイトバランス適時選択して現像

晩御飯は、の弁慶で、しゃぶしゃぶを頂きました。

メキシコ人類学博物館にて
撮影データ OLYMPUS E-3 + ZUIKO Digital ED 14-35mm F2.0 SWD
rawデータ撮影後CAPTURE ONE 4.2ホワイトバランス適時選択して現像

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