風になれ!
01 さて、いきなり、本論!

00 浜崎あゆみの人気の秘密の続きです

風になれというタイトルの由来は脚注1をご覧ください

さて、いきなり、本論!

私は浜崎あゆみのファンであることを公言しています。ご覧になっているホームページだけではなく、人と話していても、わざわざそれを説明しますし、よく見てもらえれば私の携帯ストラップは、ayuの尻尾デザインのものです。

2002年になってから、カウントダウンライブグッズの携帯ストラップに変更しました。

そんな私ですから、
よく使用しているアイグナー

(ドイツと思っていたらイタリアだと書いてあるWebサイトを見つけてちょっと驚きましたけど・・・イタリアに工場はあると思いますけどね・・・)のセカンドバッグは「あ、あゆバッグ」と誤解されています。

さもあらん、アイグナーのロゴマークは右の通りです。

そして、仕事の席でも、ayuと長瀬君とのロマンスの報道毎に意見を求められています。私はアーティストとして見ているだけなので、異性として感じているわけではないのですから意見といわれても・・・・。だいたい、私が男性のアーティストのファンだといったら、私はホモ・セクシャル愛好家だとでも言うのでしょうか・・・(^^;

まだ浜崎あゆみは若いんだから、好きにした方がいいと思うんですけどね・・・取材している連中は、自分がその年のときに何していたのか棚に上げてね・・・仕事だからなんだろうけど・・・

しかし、私を良く知っている私の親友も、私がファンだと公言することにはちょっと困惑するようです。私の音楽の好みを良く知ってるためかもしれません。そして、私のオーディオのホームページでも浜崎あゆみの再生のために注力したことを書いたページが驚かれているようです。

これについては
12 音の実存を求めてハイエンドオーディオメーカーを翻弄した浜崎あゆみの音楽

13 友来たりて、日は暮れ行くをご覧ください

私としては、わかる人にはわかるという気持ちでこのような表現しているのですが、思ったよりも伝わらないので、直裁に説明しようと考えました。それが、今お読みのホームページです。

作成には構想だけで1年を、7ヶ月以上を作成するために要しました。

これから述べる内容には、かなり専門用語が登場しますし、おそらくそれらの用語がはじめての方には概念的に難解かと思います。それらを説明するために、より詳しい解説を用意もしました。必要なリンクも行いましたが、用語の説明そのものがかなり説明を要するものもあるので、できればそのまま読み進めてください。読後にどう思われるかわかりませんが、これから説明するものが私の本心です。

これから、なぜ私が浜崎あゆみのファンクラブにも入ったのか・・・

そして、浜崎あゆみの動向にヤキモキしていたかを明らかにします。

このような説明のためには、浜崎あゆみのアルバムを聴いたときにその場で感じたことを思い出しながら説明することで、読み物風に時間を追って説明することにより、私にとっての浜崎あゆみというアーティストの意味が何であるかを明らかにしていきます。

いろいろな人と話していて感じるのですが、私の浜崎あゆみに対する感じ方は、ちょっと人と違うようです。

その理由は、私の年齢にあるのではないでしょうか・・・

私には、vogue以降の音楽に内在されている、浜崎あゆみが直面した苦悩が、自身の記憶と体験とともに、直裁に感じられました。

その苦悩の意味は、その苦悩と今戦っている世代と、その苦悩以前の世代、そしてその苦悩以後の世代では、それぞれ別々に感じられると思います。

それ以後の世代の人には、その苦悩こそ人生最大の戦慄すべき苦悩であり、結論を先に述べます。

浜崎あゆみを理解することは
現代の無明の闇の深さと
そこにやがて現れてくる一条の光を知ることです

浜崎あゆみとの出会いはDVD

私はテレビを見ればNHKのニュースとドキュメンタリー、ラジオは聞かないし、新聞はとってないし、雑誌も大して読みません(とかいいながら、奥様向けのいかれた芸能番組はテレビをつけっぱなしにして仕事をする私が何気なく聞いている番組でもあります。見ては無いのですけどね・・・)。そんな私のアンテナって一言で述べると超指向性脚注2なので、外部から私の世界に進入することが難しく、世の中にいるマーケティングの専門家にとって最悪です。広告に触れる機会が少ないため一番アクセスしにくいからです。

笑ってしまいますが、浜崎あゆみのファンになってから浜崎あゆみの出ているコマーシャルが面白いので、ハードディスクレコーダーを使用して収集することがあります。率直なところ制作費がかなりかかっているだけの価値はあるみたいですね。私がレコーダーのメーカーの人に(親友なんですが)「番組スキップ機能が無いのが不便」と話した際に、「濃すぎの要望」といわれてしまいました・・・(^^;

そんな私の音楽の趣味は、クラシックから始まり、最近にやっとJPOPSに到達しました。

この辺について詳しくはこちらをどうぞ

そんな私が浜崎あゆみの名前を初めて聞いたのは、銀座のとあるクラブで、ホステスさんが浜崎あゆみにそっくりという説明を聞き、よくわからなくて「浜崎あゆみって誰?」と話をしてくれた人に聞きなおしたときです。

このホステスさん本人はそういわれるのが嫌いなのですが、ふたりを知っている人も含めてだれもがそっくりといっていますので、やはりそっくりなのではないでしょうか?avexの人たち(よく銀座で飲んでますので)もそっくりと驚いていたようです・・・。

当時はデビューしてあまり時間が経っておらず、今ほど有名ではありませんでした。

DVD HAMASAKI AYUMI

そして時がたちました。浜崎あゆみが若い人に人気が出てきたという話は、何回か聞いたことがありました。そんな中、2000年3月にDVDが出ました。DVD HAMASAKI AYUMIです。

私は、音楽などの趣味が閉鎖的にならないようにするため、何気無しにいろいろなものに手を出す習慣があります。その日は、店頭で買いたいほどのものもあまり無く、何気なしに浜崎あゆみのDVDを ちょん と買ってしまいました。そんな背景からか、すぐに見ず、結構時間が経ってから、「そういえばこんなの買ってたのか・・・」と見た次第です。

見始めたときは、「うー、このDVDいちいち操作しないと見れなくて、面倒くさい(このDVDの再生ルール考えた人、考え過ぎさ)」とか、内容に関係ないことを感じていました。で、いちいち操作しながら見ていて「最近のこういうのは、自分で作っているというイメージを作るので大変ね・・・」なんて感じで眺めていながら、数曲を見ていて、はっと気付きました。

「これ作っているのは・・・プロデューサーじゃなくて本人の感覚に違いない・・・」

それぞれを担当している映像プロデューサーの感覚では割り切れない、全く違う作風の中に一貫されているものがあることに気付いたからです。

そして、だんだんと、そのDVDにはまっていきました。最後のほうにある、kanariyaFly highに至っては、もうびっくりしてしまいました。そして、ゴキゲンになって、何回もDVDを見直しました。このように感じて何回も見直すことは、本当に久しぶりのことでした。

このときの私の感想は、「現代型のアーティストの典型じゃん」というものでした。

この辺について詳しくはこちらをどうぞ

多くのアーティスト?が、マーケティングした結果に基づいて売り出すための機械みたいなのが、今のJPOPSなんかの現状です。だから13〜16歳くらいで恋の歌をひいひい歌ったりするわけです。売り易いからですね・・・現代には、愛というラストホープにしがみつく、哀れな側面があります。そして、その哀れな側面を容赦なく食い物にしているのが、今の音楽の現状でもあります。ケンタウロス段階の無情な、つらい側面でもあります。

でも、頼むから中学生なのに路上で派手なキスなんかしないでよね、影響されすぎだよ・・・いくらなんでも・・・。路上を歩いていて稀に見かけて、吐き気がするのは私一人ではないと思います・・・。

私がもうひとつ共感を覚えたのは、kanariyaの歌詞でした。

歌わなくなったカナリアは、
歌を忘れたわけじゃなくて・・・

そうだよな、最近の若い人たちは、自身で口を閉じてる人、多いもんなー、と思った次第でした。
このときの私の浜崎あゆみの印象は、感性を統べることにより表現する現代的なアーテイストとしての受け止め方でした。そして、その印象は、今も同じです。

01.02 まあ、面白いじゃん

A song for XX

DVDを気に入った私でしたが、アルバムをすぐに買いに行ったわけではありませんでした。店頭のアルバムはほとんど売切れでしたし、中古屋にもあまり出ていませんでした。それは、人気があるという証拠でした。

でも、何枚かシングルを入手した後、Song for XXを購入しました。

このアルバムは、浜崎あゆみのファーストアルバムで、彼女が有名になったアルバムでしたが、その時の私に知る由もありませんでした。なにしろ、闇雲に買ってただけなので・・・。

このアルバムの印象は、「ま、面白いね」というものです。私はkanariyaが入ってないかなーと思って購入したのですが、入っていなく残念に思いました。このアルバムは、この時点においてもすでに時間が経っていたものです。私の感覚として、まあ、面白いじゃん・・・というものでした。

中古でも買いにくいアルバムばかりだから、早く新作でないかね、というのがこのころの浜崎あゆみに対する期待のすべてでした。

01.03 この歌は・・・信じられない・・・アルバムを買ってパニックになる

vogue
Far away
SEASONS
DVD vogue Far away SEASONS

そんな中、新作が出ました。

vogueFar awaySEASONSそして、DVD vogue Far away SEASONSでした。そう、後に浜崎あゆみの失踪事件があったころの作品、絶望三部作と言われたアルバムです。でも、この頃の私は知る由もありません。なにしろ、そうした情報に全く縁が無いからです。

今でもこのような情報にうといのですが、性格からか最近は浜崎あゆみについてだけはアンテナが機能しているようです。そう、超指向性のアンテナが・・・(^^;

vogueをほいほいと買って帰った私は、どんなになっているのかわくわくして聞きました。ただ、アルバムのデザインが気になりました・・・。アルバムのデザインが沈んでいるからです。

そして、アルバムを聞いた瞬間にショックを受けてしまいました。

人気が出ているアーティストが、消費されボロボロになるであろう自分を悲観して歌っているからです。そして、それに続く2作は、人気が出てきた浜崎あゆみが、その人気を受け止めて、しかしそれに舞い上がることなく、逆に自身の将来に悲観し、嘆く姿が描き出されてました。これら3作を通じて、救いはありません。

この絶望には、いくつかのキーワードがあります。ひとつは、日本人らしいシナリオ、「盛者必衰の理(ことわり)」です。どのような繁栄も、やがて失われていく・・・それが芸能界ときたら、人気が出たということが自分の寿命の秒読みのようなもの・・・という感じでしょうか・・・。

宇多田ヒカルが2001年の新春インタビューをニューヨークで受けているときに「こうした生活がずっと続くんだなーと思った」と感想を述べているのと対照的ですね。これは、教育や文化の中にあるシナリオの違いです。アメリカ式の標準的な教育の場合、宇多田ヒカルのような発想はよくお目にかかります。もっとも、アメリカでもハイソな教育を受けた場合はこのような発言はありません。それは、アメリカのハイソな社会では敵を作らないような発言をするように注意して教育を受けるからです。決して日本式のシナリオを学ぶからではありません。

自分が消費され、終わっていくことを、そのシナリオから理解し、怯えている浜崎あゆみが、これらのアルバムにはありました。

常識的には、彼女の世代で有名になると、逆にのぼせ上がってしまってもおかしくは無いですし、現実には、はちゃめちゃな話題が多くあります。

東京も西麻布があまり遠くないところに住んでいる私としては、タクシーの運転手からいろいろとあきれる話題を聞いてしまうことがあります。XX(はじめは芸名書いてたんですけど、やっぱまずいかと思いXXにしました)は、タクシーに乗ってから電話しまくりで「させてー」と片っ端から口説いていたとか・・・まあ、若くてちょっと人気が出たんだから、少しぐらい羽目を外してもいいかなーとは思いますけど・・・ちょっとね・・・。

しかし、人気が出たことに流されないことから、自己が確立していることにも感心しました。

もっとも驚いたのは、この音楽そのものです。どれほど自分が消費されるという不安を感じても、音楽としてそのまま隠さずに表現したアーティストを、知りませんでした。ほとんどのアーティストは人気がある程度出てくるとそれを守るため汲々とする場合が多いですし、内心の恐れを表すことすらためらうようです。普通に考えれば、たいていは、恐れおののいて、逃げ回るのではないでしょうか・・・もっとも、自分から逃げる方法は無いのですが・・・。

こうしたことから、浜崎あゆみが自己で感じたものをそのまま音楽にするというスタイルをとっていることが、よくわかりました。そして、その音楽スタイルであるからこそ、恋の歌が少ないのだと理解できました。別に、浜崎あゆみが恋と縁遠いという意味ではありません。恋で頭が一杯の人なんて、いないというのが、普通だからです。自身がありのまま表現されれば、恋ではない歌が多くなるほうが自然です。

現代の音楽において、恋や愛ばかりがテーマになっているのは、マーケティングの結果売り易いからであって、人にとって重要な唯一のテーマであるからではありません。どれほど歌がうまくても、売りたい一心で、もしくは歌いたいだけで表現しているだけで、湧き上がるものを表現することができないのであれば、アーティストではないと思います。単なる商品としての歌い手とかつくり手に過ぎません。

この辺について詳しくはこちらをどうぞ

このことは、裏返すと、浜崎あゆみの音楽において、彼女がすべてを統べていることを示していました。そう、浜崎あゆみがセルフ・プロデュースしない限り、このような音楽が作れるはずは無いのでした。私はアルバムにプロデューサーとして書かれているマックス松浦と浜崎あゆみが、互いにどのような位置を持っているのかを理解できた気がしました。こうしたアルバムが音楽として発売されること自体、驚くべきものでもありました。

このようなタイプのセルフ・プロデュースは、私の知っていた、これまでの音楽の世界とはかなり異なります。これまでのセルフ・プロデュースは、すべてを一人で行うのが、セルフ・プロデュースのあり方ですが、浜崎あゆみの場合、感性だけのプロデュースであるからです。しかし、それが本当のプロデュースなのですね・・・。旧来のセルフ・プロデュースとは、実は、セルフ・メイキングに過ぎなく、本人の限界が音楽そのものの限界でもありました。率直なところ、稀人だけが可能なことです。多くのアーティストがこの罠にはまり自滅しています。
本題に戻りましょう。
私が、浜崎あゆみに驚き、パニックになったのがこれらのアルバムです。

そして、これらのアルバムが、浜崎あゆみをそのまま私に伝えたのです。

そう、すべての慰めがつまらなくなった魂を・・・
人生で最大の絶望の淵に立ち尽くしている浜崎あゆみの姿を・・・

01.04 解決のない絶望の連鎖

私は、これら3作に対する解決が、その後に発売予定になっているアルバムに入るのかなと思いました。まだ、手の込んだ演出なのかもしれないとも思っていたのです。

なにしろ、失踪事件まであったことを知りませんでしたから・・・。

絶望3部作に続いて、待望のサードアルバムが出ました。Dutyです。(同時にシングルアルバムSURREALも出ました)

店頭でこのアルバムを見たとき、私には戦慄が走りました。

アルバムのタイトルが本人の意識を反映しているとしたら、このアルバムにはなにも解決は含まれているはずは無いと思ったからです。

そして、そのアルバムの一曲目Dutyを聞いたとき、より深いショックを受けてしまいました。この歌で、彼女がavexで見た様々なアーティストの盛衰をそのまま歌っているように感じてしまいました。率直なところ、小室哲也にたいするレクイエムみたいに聞こえたのです。そして、自分もその道を進んでいることを、哀しんでいるように聞こえました。

実のところ、このアルバムは苦手でした。あまりにも苦しいのです。

Duty

そして、この苦しさは、よく知っている苦しさでもありました。

一般的な言葉で述べるならば、虚無の深遠に直面して怯える魂・・・ケンタウロス段階における典型的な苦悩であり、日本の若者の多くが直面し逃げ惑っている苦悩でもあります。
このことは、彼女がケンタウロス的な自己をすでに確立しており、苦悩していることを示していました。そして、ある水準に達した文明下に住むあらゆる人がこの苦悩と対峙するのが、今の時代です。

Dutyを聴いてから理解しました。

シナリオの形をとった、しかし、もっと根源的な苦悩でであることを・・・

人が直面することを避けられない実存的危機なのであることを・・・。

そして、そのことは、浜崎あゆみが様々な社会的な成功ではもはや満足することがない心の高さを持っていることの証しでもあります。

このように自身を理解する力は、理性や心を統べるものです。

専門用語では理性を超えるもの、超理性/ヴィジョン・ロジックといいます

そして、自己の内面をそのまま音楽にするというスタイルのため、それが外部にそのまま表出しているのでした。
このような若い人による、このような段階の自己が表出される事例は、芸術史においても稀なことではないでしょうか・・・。現代に残されている芸術の多くは、もっと建前で語られていますから・・・。現代日本が到達したJPOPSという音楽システムが初めて可能にした、新しい表現そのものでした。
このアルバム以降、私は浜崎あゆみを全面的に受け入れました。

この時代の浜崎あゆみがどのような状況にあったかについては、封印は、解かれましたで詳しく述べています。

01.05 苦悩との戦い

いずれにしても、苦悩を超越できるのは自己だけです。

素直な話、私の感覚では、Dutyに続くアルバム群は、苦悩の連続そのものでした。

私がDuty以降のアルバムを聴いたときの感想を、そのまま率直に述べてみたいと思います(覚えている限りですが・・・)。

もっとも、浜崎あゆみの詩よりも短く書いているのですから、ほんとに感想だけですけど・・・。いろいろな思いを込めているのにゴメンナサイ・・・簡単に書いちゃって・・・。

AUDIENCE

アルバム・インデックスにはそのまま、なるべくポジティブに書くようにしています。ですから、アルバム・インデックスには私がこのアルバムから感じた危機的な印象は、暗示するようにしか書いていません。

実際のところ、このアルバムを聴いたときに、浜崎あゆみが活路を見出そうとしているものに、危機感を覚えました。多くのアーティストが求めるのと同様な自身の活路でもある、ファンの支持を感じなから、しかし自分そのものもひとりの観察者として、浜崎あゆみをみている姿があったからです。残念ですが、ファンはアーティストを支持するだけではなく、傷つけもします。そして、同様に見つめている浜崎あゆみ自身も・・・。

浜崎あゆみの詩によく現れている観察者脚注3としての視点は、浜崎あゆみとayuという呼称の違いに現れています。本人が使う言葉で、ayu、と自身を示している場合は、人としての自己を示しており観察者です。浜崎あゆみという場合はひとつの創造物として語る場合に使用しているようです。

そして、この曲は、ayuの視点で書かれた曲なのです。

M

この苦悩の源泉は、自分のうちに在るのですから、解決策や救いは自身にうちに見出されねばなりません。このころの浜崎あゆみは、そうした自身に対しての歌を作ったのだと、聴いたときに感じました。

浜崎あゆみがマリア伝説を聞いたときのインスピレーションから作られた歌であるとのことでした。

曲の内容から、ちょとは想像できるような気もするのですが、彼女が聞いたというマリア伝説は、どのマリア伝説なのかなあという私の気持ちもありました。マリア伝説には多種類あるからです。しかし、マリア伝説はキリスト教文明でも傍流になる外伝脚注4的性格のものと、民間信仰的なものがあります。いずれにしても、日本人の場合、知らない人は触れない話題でもあります。だれか、そうした話題に詳しい人が話したのでしょう。

浜崎あゆみの歌を聴いていると、彼女が成長するためにいくつか重要なキーワードを提示する友人達がいるのではないかと感じます。おそらくその友人たちの年齢は幅広いのではないでしょうか・・・。

私は浜崎あゆみがそうした話を聞けるような人たちにより支えられているのだろうなと感じました。

そしてこの曲からも、浜崎あゆみの困惑が続いていること、そして浜崎あゆみのために力を貸すことを惜しまないさまざまな友人たちの存在が伝わってきました。

率直な話、これだけ苦悩をそのまま表現するアーテイストは私にとって前代未聞でした。普通は、虚像を作り出し、建前だけを語ります。その幼稚な歌には、時々苦笑させられてしまいます。そして、やがて、苦悩から逃げ出して、そのまま消え去ったアーティストも、いくらでも知っているように思います。

苦悩の中で困惑する浜崎あゆみを支持し続けるファンにも感銘を覚えました。

そして感じました・・・

「そうか、浜崎あゆみと同じ心のあり方を共有しているから支持できるのだな・・・
音楽の原点がここにある・・・
原初の音楽の形だ・・・
内奥から湧き上がるものをそのまま表現して、皆が共感するのだから・・・」

このようなことを、間主観的といいます。つまり、浜崎あゆみの苦悩は、形を変えて、さまざまな人々に共有されているということなのです。浜崎あゆみの歌がもたらすさまざまな共感こそ、聴いた人たちひとりひとりのなかの、深淵からの共鳴なのです。こうした浜崎あゆみの人気があることは、当然のことです。そして、誰もが彼女を自分の事として見守るのでしょう。そう、自分を見守ることと、それは同じ事だからです。

もう、このころになると、本当に心配でしかたありませんでした。いつ引退してもおかしくない・・・そうした心配でした。そして、その心配の理由に私は気づきました。

「あ、浜崎あゆみがこの苦悩を乗り越えた姿を、いつか、音楽を通じて知りたいんだ、オレは・・・」

笑い話ですが、新聞の芸能欄とかを見る習慣はこれまでの人生の中で一度も在りませんでしたが、とうとう、私はそうしたものを見る習慣が出来てしまいました。私の心配していたことは「浜崎あゆみ、引退」ということの一点でした。これらのアルバムだけ残すのでは、あまりにも悲しいからです。

もっとも今では(2001/12)それほど心配していないのですが、習慣になったため、しようもない芸能欄をみることを続けています・・・(^^;・・・
でも、もう、I am...が出たから、芸能欄なんてもういいかな、もう心配ないもんね・・・(2001/12/26)

evolution

この曲は浜崎あゆみによる作曲の第一号でもありました。さまざまに作曲されたものについて、彼女が納得できなかった為だとのことでした。それはそれで良いのですが、実は、私はこの点についても強い危惧を抱きました。さまざまなアーティストが、現代の音楽を作る過程において、すべてを自身で成そうして自滅していくのを見ていたからです。現代の音楽の創造に必要なプロセスは、大きなものとなっています。限られた時間には、それはできることではありません。人の限られた力では、作り出されるものの至るところに限界が現れてしまいます。浜崎あゆみならそれに気付くかもしれない、でも心配だな・・・それがこの曲を聴いたときのもうひとつの感想でもありました。

そして、この曲以降、浜崎あゆみの音楽制作システムは、全面的な変更が行われ、すべてのスタッフが変わることになりました。

この曲を聴いたとき、ちょっと安心しました。AUDIENCEと同様な方向ですが、ポジティブなものを引き出す力がみなぎっていたからです。

知り合いの子が「あゆはあまり好きじゃなかったけどevolutionを聴いてから凄いと思って、好きになった」と話していました。
彼女は「人生はポジティブじゃないといけないというのがあたしの信条だったの。だから、evolution以前のあゆの曲には共感できなかったけど、evolutionを聴いてから凄いと思った」と話してくれていました。

このアルバムのあと、浜崎あゆみの音楽に伴う絶望はどのような変容を遂げるのか知りたくもありました。

根源的な絶望を特徴とするケンタウロス段階であっても、人には段階を超えた輝きが突然に訪れる場合があります。それは、人生の中の、一瞬の感動でもあります。ただ、それを維持することはできません。そのためには、その輝きの源に至るための超越のプロセスが自身の中に必要だからです。このアルバム、evolutionはそうした輝きを捕らえたものではないかと思いました。

01.06 浜崎あゆみのファンクラブへ入会

このころ見ていた芸能欄や、オフィシャルサイトに不満を募らせたので、ついに私はファンクラブへ入会しました。ファンクラブで交換されているメッセージを見ると、話をすればおとぼけに聴こえる浜崎あゆみは、ファンに対して適切なメッセージを発信する力のあるアーティストでした。サイトマネージャーのkazさんもよくやっています。

そして、一番驚いたのは、ファンたちの姿でした。そこに吐露されている気持ちは、率直なところ、いろいろな気持ちの寄せ集め(悪い意味ではありません。年齢的に離れすぎているため、自己の段階が混在している状況をそのまま書いただけで、しようがないことです)でしたが、真摯なものでした。

ある日、社会人に悲観した少年の発言を見て気にして、「世の中、そんなに悲観したもんじゃないし、マスコミが伝えるみたいに会社員てのは機械じゃないよ、ひとりではできないことを行うために組織を作るんだ。ayuを支えているスタッフの人たちを考えたらわかるんじゃないかい?」といった感じのメールを送ったことがあります。私は返事があるなんて思いませんでしたが、数日後に「ありがとう、考え違いをしていたかもしれない」という意味の返信をもらい、私のほうが感動してしまいました。私にもそうした悩みと直面した時代があったからです・・・。

私のファンクラブへの入会は、このころにかなり真剣に浜崎あゆみの動向を気にしていたからです。

もっとも、けっこうお得なファンクラブですね。

チケットの優先予約をできますし、いろいろな公開放送の場に招待をしてくれます。私は2001/12/19に東京ベイNKホールで行われた日本テレビ『1億3,000万人が選ぶ! ベストアーティスト30』に行くことができ、生浜崎あゆみを見てしまいました。そして、結構いけるぜと思い、2002年のツアーの申し込みを一気にしました。私は長期にわたるライブを見るときは、演劇でも何でも、初め、真中、最後に行くようにしています。ということで、会社で4,5,6月は浜崎あゆみのコンサートのため会社を休む日がありますと宣言しました・・・(^^)v・・・みなさん、仕方がないと思われたようです
余談ですが、この生放送の舞台を見ていて、嵐がかっこよかったけど、全体をとおしての印象として、なんか子供の学芸会みたいだったと感想を話して友人をあきれさせたり、モーニング娘の歌を見てキャバクラのショーみたいだったと話して「あれは宝塚がモデルの演出なの!オジサン!」と怒られたり、話題に事欠かなくなってしまいました。

動向をそこまで心配していた理由は、浜崎あゆみが対峙している苦悩は、引退しても解決され得ないものであるからでした。引退しても逃避すらできない・・・自身のうちから現れてくる絶望、この苦悩の源こそ、人をより進める力の働きでもあるのですが、浜崎あゆみの場合はあまりにも精神的な状況に人為的な強制が多いので、自然な発展が得られるのかどうか、そこを見守りたかったのです。

01.07 終りなき悲しみ / Endless sorrow

NEVER EVER

このタイトルはevolutionとは全く逆の、ネガティブなものです。

この曲を聴いたとき、浜崎あゆみの苦悶が再び鮮烈に伝わってきました。活路を見出せない苦しみ、それはミュージシャンのものではありませんでした。なぜなら、ミュージシャンとしては成功を続けていたからです。
このような苦悶こそ、すべての慰めがつまらなくなった魂が持つ独特のものです。すべての願望が希薄で、弱くなり、活気が無くなった魂・・・。
浜崎あゆみ自身も、インタビューなどで、いろいろな賞を得たりして上りつめつつある中で、なにも満足を得られない自身の心情を繰り返し吐露しています。
これは心と身体を統べることができる新しい観点(ヴィジョン・ロジックといいます)がもたらすものです。この段階の意識にとって、それまでの栄光や誉はなにも満足を与えることはできません。すべては相対的なものとなり、それに熱中し得ないからです。
この感覚は、現代における自己のありかたの典型的な状態でもあります。
そう、浜崎あゆみのこうした音楽こそ、現代そのものを苦悩のうちに歌い上げたものでもなのです・・・。
それまでの人生の中で知る、最大の悲しみ、つまり今まで知っていたあらゆる慰めを受け入れられない苦悩が、彼女を取り込んでいるのでした。そして、それを超越する準備が進みつつあることを予感させる曲でもありました。

・・・・・・・・・
たったひとつだけ願いが叶うなら
たったひとつだけ願いが叶うなら
君は何を祈る
この空に何を祈る
・・・・・・・・・

浜崎あゆみ NEVER EVER より

この答えの無い問いである「祈り」とはなにか・・・
ちょっと人の書いたものを引用してみましょう。

「・・・どのような祈りが、人間には許されるのか。外を眺め、何か見知らぬ美徳によって、見知らぬものを得たいと祈り、自然と超自然の果てしない迷路に迷い込み、奇跡と仲介を懇願する。このような、なにか特別のものを得たいと願う祈りは、悪性である。真の祈りとは、人生の事実をそのもっとも高い視点から観想するものである・・・」

ケン・ウィルバー 進化の構造vol1 p470
エマソンの著作の引用部分より

この曲には、浜崎あゆみの苦悶と、真実で真摯な祈りがあります。

BEST

このアルバムの発売の経緯は複雑だったと思います。なぜならばavexには絶対必要なアルバムでした。また、いろいろな経路から、avexのスタッフたちが絶望に打ちのめされている浜崎あゆみの将来を心配している話もきこえていました。自暴自棄ともいえる販売戦略を採用した背景はそこにあったのだと思います。

発売日が宇多田ヒカルと同じだったので、ちょっと話題になりました。あんまり感心しない販売戦略でした。

率直なところ、浜崎あゆみはこのアルバムで引退してしまうのではないかと、真剣に思っていました。次のアルバムが出るのか引退するのか気が気ではありませんでした。浜崎あゆみアーティストブック(下でもうちょっと触れています)でも、この時にそうした気持ちもあったという本人のインタビューが記されていました。それを読んだときに「やはりな」と感じました。

私の嗜好からすると、ベストアルバムは嫌いです。古い録音を集めただけのものであるからです。しかし、このアルバムは、3曲が再録音されていました。ベストアルバムで再録音をしたアーティストは、浜田麻里しか知りませんでした。そこに浜崎あゆみの音楽を届ける側としての真摯な姿勢を感じたアルバムでもありました。

Endless sorrow

「終わりなき悲しみ/悲哀」と題されたこのアルバムを聴いたとき、私は驚きました。

......
例えば信じるもの
何ひとつなくなったとして
例えばそこにはただ
絶望だけが残ったら
どうかこの祈りを
羽のない天使が
あふれている時代で
.......

浜崎あゆみ Endless sorrow より

浜崎あゆみは自身以外にも同様な絶望が満ちていることを理解していることに、私は驚いたのです。

そして、この後に行われるドームツアー(うーん、コンサートツアー2回目なのに・・・とも思いましたがきっとできるとも思っていました)に、ファンを巻き込だAsayanダンサーズを起用していきます。

この歌を聴くと、そうしたかった浜崎あゆみの気持ちがわかるような気がします。

浜崎あゆみ
アーティストブック

このドームツアーは、浜崎あゆみアーティストブックとしてドキュメンタリーが発売されています。最初で最後のドームコンサートは、大変だったみたいですね。

私はドームコンサートは行きませんでした。私には、浜崎あゆみのライブを見てファンでい続けられる気がしなかったからです。私のようにアルバムやDVDのようなパッケージメディアからファンになった場合、質的に厳しい見方をしてしまう傾向があります。特に私の場合はそれがちょっと激しく、生で本人が見れるということで満足できないタイプなので、DVDの発売を待つと決めていたのです。でも・・・プロードバンド放送では・・・あはは・・・行きゃよかったよね・・・(^^;

01.08 真の浜崎あゆみ 誕生の予感

UNITE!

30万人を動員したドームコンサートでお披露目になった曲、それがUNITE!でした。

アルバムの紹介でも述べていますが、uniteとはアメリカ英語の場合、善意の元に苦難を超えて連携するという意味あいがあります。アメリカの独立は、政治的な独立だけでは実現できませんでした。精神的な独立がなされなければ、国家としてのアイデンティティは確立できないからです。精神的な独立は、エマソンをはじめとした精神的な巨人により、本当に達成されたのですが、彼らこそがuniteという言葉のアメリカ独特の深さの元となっています。

この曲は、メロディーの一部がカノンの形態をとっています。私は小学校で学んだ「蛙の歌」を思い出してしまいましたが、もとを辿れば、宗教曲のために昔に見出された、永遠に続く不滅の音楽の形態です。それがUNITE!に使われたことが偶然なのか、浜崎あゆみの直感なのか(この曲の作曲は浜崎あゆみです)、判断はつきませんでしたが、私は絶望の突破口を見出したのだと感じました。

一般論を述べるならば、浜崎あゆみの直面した実存的苦悩は、その終焉のきっかけとして自然などの人格的でない他者に光を見出すことが多いので、この歌が人をテーマにしているため、明るい兆しであるのかどうか、この曲を聴いた段階では判断できませんでした。

これまで基底を成していた浜崎あゆみの実存的苦悩とは、真の浜崎あゆみの誕生を予感させるものでした。次のアルバムに強い期待を抱いたアルバムでもありました。

Dearest

音楽的に先に述べると、自身でだけで作曲することをしていません。よかった・・・やはり浜崎あゆみは理解できている。

さまざまな賞をうけたこの曲ですが、解釈は3パターンに分類することができます。

1 愛の歌

ちょうど長瀬さんとの話題が出たタイミングでもあったので、最愛の人と結ばれる歌のように聴くというのがひとつの聞き方です。ただ、浜崎あゆみはそうした気持ちでこの曲を作ったのではないように思います。それは、浜崎あゆみが作り出したこの曲の為の映像が全く異なるものであったからです。

2 本質を理解している人との出会い

浜崎あゆみがビデオクリップにしたものは、大切に扱われ、しかし、表面的にしか取り扱われない浜崎あゆみが、その場を逃げ出し、街の中で浜崎あゆみを暖かく見つめる老人や少年/少女と出会うという内容になっています。そう、自身の本質を理解してくれる人との出会いと結びつきを表現しているという聴き方です。

3 真実の自分との出会い

もうひとつの解釈は、真実の自己との出会いです。

浜崎あゆみの詩は、さまざまな主観的な観点を混ぜる傾向があります。これまでの曲は、浜崎あゆみとayuとして理解できるものでしたが、この歌に関しては、もうひとつの浜崎あゆみの観点が登場しているように感じます。それは、新しく誕生した、真実の浜崎あゆみではないのか・・・そう感じるのです。ビデオクリップの映像は、そうした観点で見ても自然な気がします。真実の自己は、あらゆるものに見出されるからです。

このような解釈は奇異に思われるかもしれませんが、主観的な観点で述べる場合、自己を他者に見出すということはよくあることであり、自然な表現でもあります。本人が意識しなくても、そうした表現がとられることに不思議すらありません。

私自身としては、3の観点でこの曲を理解したいなあと感じています。それは希望でもあります。なぜならば、そうであれば、浜崎あゆみは、人が知る最大の失望を超えたことをこの曲が示しているからです。そして、そう感じる背景こそ、私が音楽を通して浜崎あゆみの苦悩を追体験していたことと、その解決に対する強い希望も共有していたことがあるのでしょう。そして、それは私だけではないはずです・・・多くのファンもきっと・・・。

ケンタウロス的苦悩超えること、それはそれまでの自己を超越した、新しい自分を得ることを示しています。つまり、真の浜崎あゆみが誕生することを意味しているのです。

真の浜崎あゆみは超越しているが故に、ayuでもあり、それまでの浜崎あゆみでもあります。そして、人の内奥から湧き上がる、真実を歌うことができるでしょう。

次のアルバムを期待して待っています。それが明らかにするでしょう、真の浜崎あゆみが誕生したのかどうかを・・・・・

実はここまでは、12/24まで時間をかなりかけて書いています。
新アルバムが出るので、あせって書いたのですが、間に合わなんだ、このコンテンツ・・・(^^;
ところで、これらの説明の中で、a song is bornについて触れていない理由は
「やっぱ書いちゃう」
平和を叫んでも、愛を叫んでも、平和は得られない説明しています。

01.09 ああ、浜崎あゆみが誕生した

新アルバムのタイトル"I am ..."が決定したとき、私は焦ってしまいました。
このコンテンツが完成していなかったからです。

そのタイトル名こそ、切望していたアルバムではないのか・・・そう予感させました。

そして、今 (2001/12/26 21:42) 、私は聴いています。

このアルバムは、私には想像できなかったもの、JPOPSが歌い上げた、真実の自己の声が満ちているものでした。私は感じます・・・浜崎あゆみの新しい誕生は成ったのだと・・・。

そして、彼女のことで心配を続ける必要は無いことを、知りました・・・

今日は、祝杯を上げよう・・・


ははは、善は急げで、代官山で祝杯をあげています
「お祝いだから写真とってよ」
「もちろんです、なんのお祝いですか?」
「う、恥ずかしいから教えない」
浜崎あゆみの新しいアルバムが良かったからと
素直にいえない私でした

私が浜崎あゆみを知ってから、まだ1年ちょっと、このコンテンツ、心配でした。
完成するまでに彼女が挫折したら、このコンテンツはどんなタイトルになるんじゃらほいと・・・(^^;

親友からもそれをからかわれていたのです・・・
「君の気持ちはわからないでもないけどね、でもそうしたアルバム出す前に挫折したらどうすんの」
「う・・・浜崎あゆみは風になれなかった・・・じゃ困るな・・・だ、大丈夫さ・・・」
「ホント?」

私は、このコンテンツを作成してきたこれまでが、このかるばどすほふで、もっとも大変でした。多くの書籍を読み返し、膨大な時間を割いていました。率直な話、暇になると気にしているのはこのコンテンツでした・・・
しかし、よかった、ついにこのアルバム、I am ...が出た・・・

ミアゲテ ミカケテ ミクラベル ホラ
ミクビル ミダレル ミハナサレル
そう僕たちはあらゆる全ての場所で繋がっているから
この言葉について考える君とだってもうすでに

浜崎あゆみ Connectedより

信じられない・・・

人の中の真実は・・・

現代において、こう表出するものなのか・・・

先達たちよ、ご照覧あれ・・・

このコンテンツのタイトルを決めたときに、この日の到来の確信は無かったのだけれど・・・

21世紀は重く苦しい問題を抱えた時代です。

これまでの政治も、宗教も、イデオロギーもなにも解決策を与えることはできません。

私たちに必要なことは、超越であり、だれもが浜崎あゆみが辿ったような、しかし全く別な道を辿ることでしょう。それだけが、時代が私たちに対して根本的に問うていることへの唯一の回答なのです。

01.10 現代の苦悩をそのまま表現した、Endless sorrowまでの浜崎あゆみ

浜崎あゆみの曲を理解することは、現代に特有とも言われる苦悩を知ることです。

本人の意思に拠らず強い支持を受けた浜崎あゆみは、世の誉れや高い評価、そして妬みと中傷の渦に巻き込まれていったことでしょう。そうした慟哭に翻弄される浜崎あゆみの中には、それを冷静に見つめる観察者がすでにありました。

そして、そうした自身の中を吹き荒れる絶望の気持ちを、そのまま表現していきました。

その絶望こそ、自身が得た世の誉れや成功が、自身を満足させるものではないことを知っているが故のものであり、率直に表現したのでした。
この絶望の源は、すでに心としての自己と感覚的な自己を超えつつあった、浜崎あゆみ/ayu自身にあったのです(このような心のありかたをケンタウロスといいます)。この苦悩を超えることは、それと対峙して超越することだけです。浜崎あゆみが歌をやめたところで、この苦悩との対峙は回避できません。そして、浜崎あゆみは、それと対峙を続け、それを音楽として残してきたのです。

浜崎あゆみの苦悩は、現代を特徴付けている苦悩でもあります。

その苦悩を共有できるさまざまな人たちが、浜崎あゆみを支持することは、当然のことでした。

浜崎あゆみが、その苦悩を超越したとき、私たちは真の浜崎あゆみの音楽を受け取ることになるでしょう。

それは、私たちにとっても、自身の内奥から届く真実の歌として、受け取れるものになるでしょう。

01.11 新世紀の歌姫

面白いのですが、音楽専門家には浜崎あゆみが理解できません。

率直なところ、歌が飛び抜けてうまいわけでもないし、曲も飛び抜けて凄いわけでもありません。

avexは自分の会社の力で彼女の人気が出ていると思いたいかもしれませんが、それは愚か過ぎます。マーケティングなど、現代において役立つ時期はもう終焉を迎えつつあるからです。いくら努力しても支持されないアーティストがたくさんいることを忘れてはいけません。

そんな浜崎あゆみですから、音楽の専門家が散々な評価をしているのを、何回も聞きました。

詩がいいのかな位に理解している専門家、いや、尾崎豊みたいな立場にあるみたいだ・・・それが最上なくらいで、率直なところなんじゃらほい?という感じです。
音楽の専門家は、自身が努力している日常のため、芸術の意味を見失っているのです。

過去50年以上、音楽の技術は向上し、巨大な進歩を遂げました。

しかし、それは音楽技術に過ぎなかったのでした。

音楽の専門家は、技術的なものと、音楽的な感覚だけで、音楽を理解しようとしました。

それは、20世紀に私たちが犯した最大の過ち、つまり、質を客観的に評価できるものにだけ求めるという行為を、時代の流れとして行っただけのことでした。しかし、人間とは、客観的に理解するものだけが全てではありません。主観的な質が、本質を現しているからです。

浜崎あゆみの音楽は、その表現するものが(これまでは)共通の苦悩であっため、だれもが共感しうる力を持っていました。これを間主観性といいます。そして、そこに浜崎あゆみの人気の基本があるのです。
音楽の主観的な質こそ、21世紀に復権が必要なテーマです。
すでに、音楽の世界でも各分野でそうした傾向が現れています。
このホームページで紹介しているjazzの綾戸智絵や、紹介はしていませんがクラッシクピアニストの、フジコ・ヘミングなど、同様な傾向にあると思います。綾戸智絵は病気や身体的な背景から彼女の歌は音階が出し切れませんし、フジコ・ヘミングはもうその年齢から、正確な演奏には遠く至りません。ですから、音楽の専門家からすると、なぜあそこまで人気があるのか理解できません。

そして、JPOPSでは、浜崎あゆみが同じ位置にあります。

音楽を聴く側は、すでに理解しているのです。

音楽の価値は、その内容全体であって、演奏技術、作曲技術だけではないことを・・・
これが現代において衰退のとまらないクラシック音楽などが犯した根本的な過ちの基本だと信じています。

笑い話ですが、クラシックのアルバムは全世界で5000枚くらいしか売れないものも少なくありません。クラシックの専門家は、支持を失う理由が判らないようです。今でも演奏されている曲は、100〜200年前のものばかりです。クラシック音楽は、現代でも続々と作られているのにです・・・。聴衆が馬鹿なのではなく、自身が誤っていることを気づかないのは、たいしたことだと思います。現代において私たちが聞く現代のクラシック音楽は、アニメや映画のおかげで、いろいろと作曲され、演奏されているものになろうしています。滅び行く音楽の精華は、将来において復権するためには、音楽家自身の自己の探求が必要な時代になろうとしています。

そして、21世紀において、私たちは主観の真実が復権することをゆっくりと体験することでしょう。

私は、浜崎あゆみを「新世紀の歌姫」ということがあるのですが、その理由は、ここで述べた主観の真実を歌うからなのです。

そして、旧世紀の歌とはマーケティングで売れると思われたものにしがみつく歌です。恋の歌ばかり歌っているのって、ただの色ボケなのか、それとももうちょっとまともでも、操り人形と思われて、ちょうどいいのではないでしょうか・・・。

浜崎あゆみは自身の職業をアーティストと答えるようですが、それは本当に正しいと思います。彼女の表現しているものが、現代に必要な、これからの芸術そのものであるからです。

01.12The MISSION of ART / 芸術の使命

最後は、人の文章で締めくくってみたいと思います。

21世紀のアーティストは自らを深く深く見つめ、芸術の使命について強く問わなければならない。芸術がアーティストのエゴのファッショナブルな思いつきや住んでいる世界を反映している程度のものなのか、それとも、私たちや世界において真実の美と聖なるものが顕現する癒しの道であり、私たちとこの驚異の世界を成す思念の反映であるかを・・・。これは新しい芸術を縛るもの(ドグマ)ではなく、ただ、芸術をより高揚させ、霊感をもたらし、魂の視野を開く炎をもたらすものなのだ。

The MISSION of ART p67より
ALEX GREY著 / 邦訳がないので私が訳しました

the MISSION of ART by ALEX GREY,1997
絵の解説はこちらをご覧ください

新しいアルバムが伝えてくれました。
浜崎あゆみは、21世紀のアーティストとして誕生し、旅立ちました。

浜崎あゆみよ、内奥から湧き上がるものを歌え
真実の歌は、簡単には届くものではないのかもしれない
でも、それが芸術とアーティストの使命なのだから

これからも、様々な迷いと苦しみがあるでしょう

しかし、きっと乗り越えていけるのではないでしょうか

もう、無明の闇を超越したのだから

・・・頑張ってね・・・これからも応援しちゃうぜ・・・(^^)v

2001/12/26にココを書き足しました
I am ...を聴きながら・・・


このコンテンツは作ってから1年くらい(2002年時点)経ちました。ですから、フォローをちょっと用意しました。
今の浜崎あゆみについては、「ちょっと一息「今の浜崎あゆみ」」をご覧ください。

2002/11/25


02 いきなり深淵への誘い へ続きます

脚注1

アルケミストというベストセラーがあります。そのクライマックスのシーンからこのタイトルをつけました。
「少年は大いなる魂に到達し、それが神の魂の一部であることを知った。そして、神の魂はまた彼自身の魂であることを悟った。そして、一人の少年が、彼自身が、奇跡を起こすことができると、知ったのだ。
その日、シマム(砂漠の激烈な嵐)はかつてないほど吹き荒れた。その何幾世代にもわたって、砂漠の最強の首領に挑戦して自分を風に変え、軍隊の野営地をほとんど破壊した少年の伝説を、アラブ人たちは語り伝えることになった」
(「アルケミスト」パウロ・コエーリョ著 山川紘也、亜希子訳、地湧社、P184-5より)

脚注2

特定の方向にだけ感度があるという意味

脚注3

観察者とは、専門用語です。ケンタウロス段階以降に見出される、理性的な自己、感覚的(身体的)な自己を見つめる、新しい自己のことをいいます。そして、観察者は、理性や感覚を超えたもの、ヴィジョン・ロジックにより判断を行います。

脚注4

正式な聖書に組み込まれなかった、ローマ教会により正当とはされていない記述のこと


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