オーディオの遍歴
第15章
感動させる音などない・・・
でも、意味を明らかにする音はある・・・
■15.03 音楽の本質 編■


第14章 特別編 いける音は遠くない・・ オーディオの遍歴 INDEX !第16章 音楽よ、届け!

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■ 15.01 インデックスとイントロ
■ 15.02 音がいいとか、悪いとか・・・ 編
■ 15.03 音楽の本質 編
■ 15.04 HDCDとは・・・ 編
■ 15.05 アルバムを創る人々、聴く人々 編







ところで、インテグラル・セオリー理論などはご存知ですか?

このコンテンツを作成してからだいぶ経ってからですが、プロのレコーディングをされている人らしいサイトを見ていて、このコンテンツ部分について行けなかった人がいることに気づきました。その内容を見ていて、ははあ、と思ってしまいました。このコンテンツは、ちょっと深い書き方をしているのですが、そのために「風になれ!」と同様に、前提としている知識があります。それは、ケン・ウィルバーなどが説明しているインテグラル・セオリー的な知識と世界観です。こうしたある程度検証され認められている概念をベースに書いているいるのですが、関連する知識が無い人には、ちょっと難しいかも知れません。

右の写真がケン・ウィルバーです。

現代哲学で指導的な立場にいる人物です。

人には意識の相があることを明らかにして、そうした相の変移を、大きく分けて、プレパーソナル(前個)、パーソナル(個)、インテグラル・セオリー(超個)とすることから、インテグラル・セオリー理論と呼ばれています。

この中には、人間の認識の構造を理論化した、ホロン理論や人間の認識の4つの象限についての説明があり、このコンテンツはそうした理論に基づいて記述しています。

かるばどすほふでは、インテグラル・セオリーを説明するコンテンツとして、「風になれ!」の「02 いきなり深淵への誘い」、「03 愛を超えて」などでインテグラル・セオリーのイントロを説明しています。ご覧いただければと思います。また、これらもちょっと難しいというお話も頂いているので、そのうちインテグラル・セオリーそのものを説明するコンテンツを用意するつもりです。

まあ、くだらない趣味であるオーディオにも、人がやることなのでちょっとは深い観点があるのだと思ってもらえれば幸いです。

2002/11/5

なぜ、人は音楽を求め、音の質を求めるのか

ここまで説明してきて、なんだか話題が濃いと思いませんか?

どのようなアルバムでも音楽は同じはず・・・録音がどうのなんて、本当に重要なのでしょうか。

音楽はライブで聴くのが一番といういう人だってたくさんいます。ミュージシャンだってそう信じている人はたくさんいます。アルバムの音をどうのこうの言うくらいなら、ライブに行けばいいのではという話しだってあります。

余談ですが、私はライブも大好きです。ジャズはアルバムで聴くのがあまり好きじゃありません。即興性が楽しい音楽ですから・・・。そして、ライブは一期一会、ですからライブがシリーズになっていると、必ず、はじめ、真中、最後に行きます。でも、浜崎あゆみみたいに場所が移ると・・・日本中廻ることになるので、追っかけと勘違いされて困ります・・・お金もかかるし・・・(^^;

もしもそうした話題に真実があるならば、これまで述べてきたような話題を、より展開することは時間の無駄でもあります。

音楽の歴史を思い起こせば、過去にはミュージシャンはよりよい音楽の実現のために新しい楽器の創造も行っていました。人は、音の追求を忘れたことは、無かったのです。いや、そのために無上の努力を続けていました。
それは現代において、最新の科学技術と理論を投入し、より新しい音楽を実現する努力として結実しています。現代の電子楽器の隆盛はそうした結果でしょう。そして、古(いにしえ)の巧(たくみ)の技により守られる伝統も並存されています。現代の音楽事情は、音楽のために様々な形が花開く、美しい花園でもあるのです。

なぜ、そこまでして、人は音を追求するのか・・・その議論がなく、オーディオの話題を進めることは無意味でしょう。

ご紹介したアルバムの時代(といっても、綾戸智絵は別ですが・・・)、まだオーディオの技術は発展途上・・・今のような完成度には遠く及んでいませんでした。で、これから現代の技術のアルバムに話題を進めていくのですが、だんだん話題が精緻になっていきます。そうした中で、この疑問、なぜそこまでして音を求めるのか・・・ということを放置して話題を進めることは、率直なところ、疑問が残る限り、苦痛を伴う話題となるでしょう。

そう、この大切な話題を飛ばして、音の話題を進めることは片手落ちどころか、意味が無いと思うのです。

というわけで、話題は一気に深さを増します。

話題が広がるのではありません。話題は、深く、人の中に入っていきたいと思います。いままで、前提としていた「いい音」の意味を説明しようと思うからです。そして、人にとって、音楽とはなんなのか、オーディオとはなんなのかを、ご説明していきたいと思うのです。

音楽とは、なんなのか

音楽を愛しながら、音がいい、音が悪いと話をする人もいれば、音など音楽に関係ないという人もいます。また、演奏に難があっても、ライブがすべてという人もいます。ライブでしか音楽を聴かない人だっています。演奏するのが好きな人もいれば、聞くのが好きな人もいます。

ま、音楽が嫌いな人は、この際話題から除外いたしましょうか・・・(^^?

昔は本当にいたのですが、今はどうなんでしょう・・・(^^;
最近はさすがに絶滅してるようにも思うのですが・・・(^^;
音楽とはなにか、また、ライブとは何なのか、そして、オーディオにより楽しむ音楽とはなんなのか・・・それを理解するためには、音楽とはなんなのか・・・音楽全体の意味を理解することが大切です。

と、書きながらでなんですが、うっかりすると延々と書くことになるので、バッサリ行きたいと思います。

多くの場合に語られる内容、それはよく見てみると、音楽のそれぞれの側面を捉えているだけだに過ぎないようです。ある人には旋律であり、ある人には音や声の美しさであり、ある人には共感さであり、ある人には場の雰囲気でもあります(どうゆうわけだか、歌詞をメインに思う人もいたりもします)。たしかに、それらは音楽を構成するものであり、切っても離すことは出来ません。

逆に、音楽を聴くということは、それら全てを受け止めねばならないのです。ですから、すべてが大切です。そして、そうした音楽の要素全てを理解するために、音楽全体を理解する必要があるのです。
音楽全体、そこにキーワードがあります。

私は個人的に、音楽全体を「音楽経験ゲシュタルト(または、単に音楽ゲシュタルト)」と呼んでいます。

ゲシュタルトという用語は、ドイツで生まれたゲシュタルト心理学に端を発しています。さまざまな心理学の発展のなかで、分析し分類するだけでは、人を語るに足りなくなってしまったことへの反省が、ゲシュタルト心理学の発端です。元来、分離し得ない人の心の有様は、どのような分析を行ったとしても、不可分な統一体であるので、このような考え方は自然です。

全体性とかいう用語が日本語では対応するべきゲシュタルトというドイツの言葉は、その不可分性の性格について英語や日本語には適切に訳すことが難しい点があるため、ゲシュタルトという用語がそのまま使用されています。

ゲシュタルト心理学では旋律ゲシュタルトのように、もともとは時系列的な音程の連続により音楽を理解することから語られた言葉がありました。それは、時系列的変化を理解しない限り、音から音楽を理解できないことを示しているものです。ただ、それはパターン認識を示す程度の意味です。人が「感動する」までを示してはいません。

しかし、ここではよりその話題を進めたいと思います。旋律をパターンとして理解できるだけでは、音楽を理解しているとは言いがたいからです。音楽の旋律を認識するだけでは、まだ音楽を受けた止めているとはいえません。人は音楽により、深い感動をも体験するからです。なぜ、人は音楽を聴いて感動しうるのか・・・それを語るときに、音楽ゲシュタルトという用語には旋律の理解だけではない、より深い意味を内在させざるを得ないのからです。

ここで述べた音楽ゲシュタルトとは、音楽全体という意味です。そして、その言葉には、その深さや表現形態そのものも含まれます。音楽には、言葉ではない形で、人になんからかの意味を伝え得る力があるからです。

困ったことに、音楽にそうした力があることを知らない人、いるんですよね・・・(^^;

このようなゲシュタルトという用語は便利なのですが、意味のフォーカスを甘くするという難点があります。なんでもかんでもゲシュタルトという用語で表現できるのですが、すべてがまぜこぜなので話が発散しやすくなります・・・。ゲシュタルトという考え方が見出されてからもう60年を過ぎようとしています。ですから、今の時代の感覚として、それも致し方ないとも思います。この問題のために、ホラーキーに基づく分析を併用しようと思います。ホラーキーを明らかにすることにより、ゲシュタルトのもつさまざまな側面をわかりやすく理解することが可能になるからです。

ホラーキーとはホロン階層のことです。通常の階層、ヒエラルキーが経路的な性格を持つのにたいして、ホラーキーには経路的な性格がありません。詳しくは・・・そのうち解説しますね・・・。気分なのですが、インテグラル・セオリーの解説、強化する予定なので・・・。

音楽ゲシュタルトを理解する場合において、ライブとパッケージメディアには明らかなホラーキーの違いがあります。ライブの場合は、音楽だけ聴く場合に加えて、自身が行動として参加するという内容と、映像的に構成されているその内容が、音楽の意味性に加えて存在しているからです。

ですから、ライブでは、演奏の間違いがあっても、雰囲気や全体性があれば、十分に満足されるわけです。

この図が、私が考えている音楽(経験)ゲシュタルトに内在するホラーキーです。

 

ホラーキーでは、ホロンの性格から、異なる相であれば、新しい意味を持ちます。つまり、音が、音階を持つことで、そして、時系列にいたることで、ここちよさの感覚、そしてさらに進んで意味を、そしてその結果として、共感を得ることが出来ることを示しています。その段階に至り、人の中にある言葉や文字と同様に意味性において、音楽は変わりなくなっていきます。それは、言葉や抽象的で論理的な概念に匹敵する、強い表現でもあります。いや、言葉の限界に縛られないという意味で、全く異なる強さを持ったものでもあります。

このホラーキーで、最も高いところに、意味性、共感性を置いているところにご注意ください。音楽の本質を語るとき、その中心は音にも、音階にも、音階を持った時系列的な音である音楽にも、もはやないということを示しています。ごちゃごちゃ難しく説明するよりも、歌の一節を引用して説明してしまいましょう。

・・・・・
歌を歌うのが 歌だとは限らない
感動する心が 音楽なんだ
・・・・・

「音楽」

早川義夫
歌は歌のないところから聴こえてくる
SONY AICT1172

ここで説明したような音楽ゲシュタルトはかなり純粋でシンプルなものです。言い換えると、ライブなど他の音楽経験において、ひとつの要素に、つまり部分となりえるものです(余談ですが、こういうのがホロンの特徴です)。つまり、先の音楽は、要素的/原初的な構造でもあります。そして、これが、オーディオにおける音楽ゲシュタルトそのものなのです。しかし、実際に私たちが体験する日常的なライブにおける音楽経験は、下図に示すように、今述べたホラーキーを包含する、別なものです。

ライブ音楽では、先にご説明したパッケージメディアのホラーキーをその部分として、さらに別な要素がライブ音楽の場合のホラーキーに加わります。映像的表現、そして行動し参加する喜びがあるわけです。ですから、ライブ音楽とは、共感してなんぼ・・・ということですね。

現代のライブ演出技術において、これらがすべて実現されていることは、ライブに行かれた方にはおわかりいただけると思います。手で拍子をとったり、汗まみれになりながら一緒に踊るのは、必要で正しいだけではなく、ライブ音楽としての完成度を増す要件でもあります。そうした意味で、ライブ音楽は、ひとつの参加型の総合芸術となっています。

このようなライブ音楽は、そのために、専門の監督と演出がいます。浜崎あゆみのライブの場合、スタッフだけでだいたい200人くらいになるみたいですね、恐らく、この数からホール要員は別になっていると思います。クラシックのフルオーケストラでコンサートを行うよりも、はるかに手間がかかることがおわかりいただけると思います。その理由は、このホラーキーそのものにあります。

逆に、そうしたことは音楽の純粋性に対しては、付加的なものが多いと理解することも出来ます。ですから、そうした形態を嫌うということも、純粋さを求めるときには、ひとつの方向でもあります。例えば、クラシックの音楽の場合は、ニューイヤーコンサートなどノリの良い演奏会などは別として、拍子を取ることなく、静かに聞いているわけです。また、人によっては、クラシックなどのライブでも目をつぶって聴いている人がいる理由もご理解いただけるでしょう。でも、そうでない楽しみ方も多くありますけど・・・。

2001年のゴールドディスク大賞授賞式の際に小澤征二のニューイヤーコンサートのシーンを見ていた北海道出身の女の子グループZONEの子がノリノリの演奏会の映像を見て「クラシックってつまんないと思ってた」と話して、小澤から茶目っ気たっぷりににらまれて言葉に詰まったのが面白かったです。だれがこの子達に黙って聞くのがクラシックと教えたのかな・・・学校教育者なんでしょうか・・・いい加減にしてね・・・(^^;

ここまで、分析をするとおわかりいただけると思うのですが、ライブ音楽のよさとは、音楽そのものではないものに依存する点も少なくないのです。

ライブ性の無い音楽・・・純粋な音楽経験・・・それがオーディオ

ライブ演奏の場合は、ライブ性、つまり映像的、行動的なものに端を発し共感性にいたるものが、必ず伴います。どのようなライブであっても、演奏や音楽だけではない、別に伝わるものがあるからです。

しかし、オーディオでは、音楽だけを聴くという行為しかなく、ライブ性は失われてしまいます。

それは、オーディオが音楽を表現するものとして方手落ちなのではなく、オーディオにおいて純粋に音楽が体験されるようになったということなのです。昔から、オーディオの音楽は、ライブとは全く異なると言われていましたが、それはこれまで説明したような意味から、真実であることがおわかりいただけると思います。音楽以外に伝わるものが無いのがオーディオだからです。

昔から語られていた、ライブのほうがレコードを聞くよりもいい・・・という言葉がありました。

この言葉で連想されていた意味は、ライブの音は、レコードのようなパッケージメディアには録りきれないというものだったように思います。でも、この言葉のもつ本当の意味は、ライブの感動は、レコードの感動とは異なるということなのです。

音としてみたときの実態は、ライブよりもレコードのほうが良いというのが、現代の状況です。よく観察してみてください。ジャズやpopsでは、歌手や演奏家は、演奏時にエフェクターとPAを多用します。率直な話、あるレベルを超えたオーディオ機器を基準に見れば、ガラクタのような設備の立てるその音が、レコードのようなパッケージメディアよりも酷いポテンシャルしかもっていない場合が、ほんどというか、すべてです。クラシックの演奏では、そうした設備は使いませんが、楽器のいちばん素晴らしい音をマイクで収録したパッケージメディアと、どちらかというとひどいと言いたい貧弱な反射音のホールで聴こえるライブ音楽の、いずれが素晴らしい音のポテンシャルがあるのか、想像してもわかっていただけると思います。音として見たときに、パッケージメディアを超える内容をライブに期待することはできません。

アコースティック楽器の音には誤解が多いと思います。ほとんどのアコースティック楽器はホールと組み合わされて音が完成します。そうした音の印象は、こちらをご覧ください。

しかし、間違いなく、パッケージメディアには、ライブで体験する素晴らしさは組み込むことが出来ません。これまで説明してきたように、ライブでの音楽経験の要素の多くが、パッケージメディアには存在しないからです(DVDなんかですと映像は入りますけどね、でも視点が自分の自由自在にはならないですし、共感する体験的なものもないので、伝わるものは弱いですね)。
でも、パッケージメディアには、音楽(や映像)を純粋に楽しむという、ライブでは体験しにくい、深さがあります。

ここでは説明していませんが、映画を映画館で見るのと、家で見るのでは、印象がぜんぜん違いますでしょ。その理由も、似た話題があります。笑い話ですが、私は映画館でたまらなくつまらなくて途中で出てしまったものが、家で見たら、そこそこ面白いという経験が多くあります。そのためでしょうか・・・最近は映画館ではなく家で見たがります。ま、家のほうが絵も綺麗だし、音もいいし、粋なお酒も飲んでいられるし、椅子もとっても快適だし・・・当たり前かなあ・・・。ぼりぼりと、おせんべいかじってもOKですしね。

パッケージメディアで音楽を楽しむことと、ライブで音楽を楽しむことは、根本的に異なる体験なのです。
これは、音楽を行う人たちにも理解してもらいたい話題です。
まったく異なることであることを知る人は、そう多いとはいえないでしょうから・・・。

余談ですが、全体を見ないことを、ゲシュタルト崩壊といいます。この場合に、そうした用語を使うのはちょっと乱暴ですけど・・・。専門家ほど、音楽全体を見ないんですよね・・・(^^)・・・その背景はこちらでも、ちょっとややこしいですが、説明しています・・・ライブでミュージシャンなんかが聴いていると、周りに関係なくシラッとしていたりする理由も同じでしょうね、後で話を聞いたら、だいたい分析的に聴いていたみたいですから・・・。

オーディオとは、音楽の意味を明らかにすること

このような、音楽以外になにもないオーディオにおいて、音そのものに対して、強く関心が行くことは自然です。

音は、音楽経験ゲシュタルト全体において、基底を成しています。そして、オーディオという純粋な音楽ゲシュタルトでは、音以外の要素が物理的には存在してはいないのですから・・・他の道は無いのです。

音以外のホロンは、音楽を聴く人の中にだけ存在します。
ですから、制御する術はありません。

音、というものには、経験が必要です。

経験のない音を想像する方法はありません。

そして、多くの人は、音そのものについての経験があまりありません。

このようなことを書くと、不思議におもわれる方も多いと思います。テレビとかステレオ、ライブでいろいろ聞いているぜ!と思われるでしょう。しかし、残念ですが、その音は体験としての価値は大きくないかもしれません。うまく表現されていない音は、元の音そのものを知っている人には想像できるでしょうが、知らない人にはまったくわからないものだからです。ですから、うまく表現されていない音では、経験としての重さに至れません。

音楽で使用されている音には、本当に様々なものがあり、実に豊かです。で、そうした音を聴いたことがない人にとって、初めて体験する音は、驚愕をもって迎えられます。

私も、自分のオーディオシステムとか、友人宅でチューニングしたオーディオシステムで、音楽を聞いてもらったときに、鳥肌が立って聴き入っている人とかを見ると、こうした体験が深い驚きなのだろうなと思います。

もちろん、自分にもそうした時代がありました。今は、日常の体験なのですが・・・。

たとえば、よく誤解されている音に、電子音があります。人が電子技術により作り出した音、自然には存在しない音で、私たちの日常でよく利用されているにもかかわらず、その奥の深さは知られていません。適切に再生された電子音を聴いたときに、その表現の深さに驚かない人はいません。電子音は、別に、なにかの代用というものではなく、電子音とは、旧来のアコースティック楽器には実現できない、独自の世界があります。

この話題は、後半に至って、重要な話題となります。

そのような深さを持っている音そのものが十分に再生されるとき、その音は、その上位のホラーキーをより明らかにします。

オーディオの趣味をしている人にはよく体験されることなのですが、再生される音のグレードが変わったときに、そこから聴こえる音楽は、どんなに聴きなれていた音楽であっても全く新しい感動を引き起こします。

この前、友人のご夫婦がグレードの高いステレオシステムを新規に導入されるのをお手伝いしたのですが、システム導入後に奥さんから「今まで聴いていたのはなんだったのかと考えちゃいました」と興奮して喜びを伝えてもらったときに、とてもうれしく感じました。

つまり、音をより上手く再生することとは、音楽の意味を明らかにすることなのです。

もちろん、あなたの心が極めて敏感でいくつかの要素があれば、それはあまり大切ではないでしょう。しかし、それには作曲家に匹敵する音の感性と経験、そして想像力が必要でしょう。その能力は音楽の創造のためのものであり、音楽を受け取めるためのものではありません。

音が十分に人に届けられることで、音楽の意味はより深く伝わるのです。

でも、言い換えると、音により人が感動することなどありえません。感動は、音よりも高いホラーキーにおいてもたらされるからです。つまり音楽の意味において、人は深い感動を体験するのです。

感動させる音などは、存在しません。
しかし、音楽の意味を明らかにする音は、あるのです。

これが、オーディオという趣味の本質です。

再生を通じて、音楽の意味を明らかにすること、それがオーディオなのです。

送り手もすべてを知らない音の世界、パッケージメディア

オーディオについて誤解があるもうひとつは、パッケージメディアの作り手の中で遊ぶだけであるということでしょう。

この誤解は、音の再生という深さを知らないが故に生まれているようです。録音やアルバム制作という過程は、音の可能性をパッケージメディアに対して閉じ込めるためのものです。プロ用機器と呼ばれる機器群は、そのためのものであり、それ以上のものではありません。そして、音の可能性をパッケージ化する技術は、再生するよりも容易なのです。それは、1950〜70年代に録音されたアルバムの評価が未だに高いことからもわかります。

現代の最新であるコンシューマーオーディオの再生設備は、過去のどの時点よりも素晴らしい再生を可能としています。

プロと呼ばれる人たちで、オーディオの趣味をたしなんでする人はそう多くは無く、実際のところ、どのように再生されるのか知らないでいるプロが少なからずいます。そのためなのでしょう、不用意に再生がむずかしいアルバムを作ってしまうのだと、私は思っています。

音楽関係のプロのオーディオ技術関係者は、録音する人たちと、ライブを行う人たちに分かれます。これらの職務は細かく区分されており、昔のようにひとりの優秀な録音技師が全てを行うということは、あまり無いようです。

ライブのエンジニアになると、ツアーが無い限り仕事が継続的に無いので、かなり生活も大変みたいですね。季節的なお仕事みたいな感じです。もちろん、人によりますけど・・・。

録音エンジニアはスタジオという設備産業の中で、さらに人的設備のような立場になっていることが多い気がします。スタジオとの契約とか社員になることで張り付きになることが多く、限られた設備で効率よく作業するプロとなります。スタジオの費用は、時間で決まりますから、制作側としては効率よく作業することを最優先され、手際の良い技術者が優秀な技術者のまず第一条件です(これは大切なことです)。こうした背景から、録音技術の進歩の本質は、アルバムを作りやすくする方向に走り、ライブの技術は丈夫であることとコンパクトであることに向かったということは否めないと思います。で、次に気にしたのが音でした・・・。でも、プロと呼ばれる人たちは自身の環境にある設備に縛られています。困るのは、そうした人たちがプロ意識だけで、実際の家庭における再生には素人だったりする場合があることです。なんのため録音/編集なのか、わかんないんですよね。映像なら、モニターを見ただけでいいんですけど、家庭での再生を類推するには、かなりの経験が必要です。

アルバム制作時には、必ずcdラジカセやミニステレオの再生のチェックも行われます。笑い話ですが、それを見たり行ったりする中で、そのアルバムに最適なのはcdラジカセだと誤解する人もいます。そうしたチェックは商品として必須ですが、作られた音楽がそうした機器での再生に最適であることを示しません。別に音のクオリティが劣化するわけではないからです。映像だって、家庭用14インチテレビでの再生チェックを必ず行います。いずれも、パッケージメディアとして当然の調整をしているだけで、別にクオリティを落としているものではありません。

これらの話題は後半でだいぶ深く言及します。

ここに、再生が難しいアルバムが最近多い理由があるのです。

余談ですが、CDラジカセでのチェックだけではなく、普通のステレオのでの再生を6畳間くらいの広さでやれば、どれだけ自分たちが失敗しているかわかると思うのですが・・・。昔の技術者は再生音をモニター音だけでだいたい連想できたのですが、今の録音技術者にはステレオでの再生音が連想できない人がかなり多いといわれています。また、電子音のようにモニター設備で聴いただけでは判断できない音になると、めちゃくちゃをやる場合も少なくないですね。後半でそうしたアルバム例を示します。しかし、プロと呼ばれる人たちが、モニターの再生音だけでしか判断できないなんて・・・世も闇ですね。いつから音楽を聴くものとしてモニターが作られるようになったのでしょうか?経験ある技術者たちが音の性格を判断するために作られてるのがほとんどなのですけど・・・。古いアルバムの評価が高い理由も分かる気がします。

率直なところ、プロ用と呼ばれる設備は、音の特徴と問題点を明らかにするためのもので、再生して楽しむためのものではありません。映像の世界もこの点はちょっとだけ似ている点があります。映像のプロ用モニター機器と民生用には根本的な差があり、前者が正確な色表示を行う為のものであるのに対して、後者は見て楽しいようにデフォルメされたものとなっています。ですから、モニターで見るよりも家庭用の画面のほうが楽しく見れます。プロ用機器は、色バランスの崩れ方をチェックし、映像の問題点を明らかにするために使用されるものだからです。これが、音の世界になるとちょっと違いがあります。プロ用機器は音の特徴を知るためと、丈夫であることが求められ、後者は、ギリギリまで音を再現することが求められているからです。プロ用オーディオ機器は、その再生音から音の特徴が理解できる人が使用する前提に立っているのです。ですから、それほど立派な設備でなくても、優秀な技術者であれば十分であるといわれています。

余談ですが、見た目の割に?なものが多いのもプロ用機器かもしれませんね・・・本音ベースの話題ですが・・・。

オーディオショップの店長さんから聞いたのですが、プロと呼ばれる人たちがオーディオを始めると、はじめはコンシューマオーディオ機器を馬鹿にしてるのだそうです・・・(^^;・・・それでも聴こうというのは立派なことですね。で、やがて経験をつんで、コンシューマーオーディオ機器のもつ能力に驚いて、だんだんとオーディオの深さを覚える、というパターンが多いみたいですね。

実際のところは、オーディオの世界では、再生側の手の中で、プロによりパッケージ化された音楽がもてあそばれ、こねくり回されています。そして、音楽として完成されるのです。

再生にはかなり難しいキーワードが多くあります。現代の最新技術をもってしても、音には様々な解かれていない謎が多くあるからです。未だに、オーディオについてオカルトのような話題が残るのは、現代の分析技術では人が音を認識するということを理解しきれないという現実のためなのです。たとえば、なぜ、ケーブルでこれほど音が異なるのか・・・そんな簡単なことでも、まだわかっていません。CDを再生するCDプレーヤは、数千円から数百万円まで、価格の開きがあります。これは、工芸品としてみれば不思議ではありません。100円の茶碗から数千万までの茶碗があるのですから、そうしたものと比較すれば差は少ないといえるでしょう。両者は、機能が価格差があっても変わらない点も同じです。でも、オーディオ製品は茶碗と違って、不朽の芸術品ではありません。オーディオ製品は、パッケージ化された音楽という不朽の芸術を、現実のものにして描き出すためにあるからです。そうした触媒がオーディオ機器であり、そのために、全身全霊を込めて開発された高額な機器も多く開発されているのです。

そうしたコンシューマーオーディオの観点から見ると、プロ用と呼ばれる機器やスタジオの構造は、カタログスベックは素晴らしいのですが、内容を見てみると、いい加減にしてくれよと思うことも、ときどきというか、結構というか・・・あります。

努力している方々も多いので、言い過ぎですかね・・・(^^;

一番遠くから目的を求める、オーディオの宿命

オーディオという趣味の特徴を述べてきました。

ちょっと考えると笑い話のように、再生するための技術が追求されるのは、音楽の意味を求めるからこそです。そのために、オーディオでは最新の技術と思想を、惜しみなく投入します。

開発者にも、使用者にも、そうした音楽の意味を求めることが、強く求められる趣味がオーディオなのです。

それは、演奏者に求められる音に対する姿勢とは、全く異なります。

音は、演奏者にはひとつの手段であり演奏技術など、より大切なものがあります。

しかし、オーディオにおいての音は、たったひとつの手段であり、他の方法がありません。それは、感動という最終的な目的から最も遠くから入るという悲しい宿命があります。それがオーディオという趣味が持つ、業なのでしょう。

ですから、その道の遠さ故に、オーディオの話題は、誤解されやすく、また、発散しやすいのだと思います。

さて、再び音の旅へ HDCDの謎・・・(^^;

話題をちょっとだけ堀り下げましたが、再び音の旅を続けてみましょう。

私が音を求める中で、ここ1年以上に納得行かない期間が続いていたのが、avexから発売されている一連のHDCD化されたアルバム群でした。

HDCDについては、以降に詳しい?説明をします。

もっとも、ここのところにavexが発売しているすべてがHDCDというものではありませんけど・・・。浜崎あゆみのアルバムでも、リミックスものでは、HDCDになっていないものがありますし・・・。どんな基準でHDCDかそうでないかとの区別が生まれているのかわかりませんが、それほど明確な意志でやっている気はあんまり感じません・・・。

浜崎あゆみのアルバムでは、再発売版のシングルアルバム群が旧来はHDCDではなく、再発売時にHDCD化されているのですが、その再生音がめちゃくちゃなので驚いてしまいました。

よく知らないのですが、avexのアルバムを製造している会社がこの間に変わったみたいですね、いろいろな話を聞いてみると・・・。で、製造を担当できなくなった会社は、品質の問題があったらしいのですが・・・たしかに、はじめのころのアルバムがいいといえるものではありませんけど・・・HDCDに無茶苦茶にするよりはねえ・・・あ、HDCDが無茶苦茶なんじゃないので、誤解しないでくださいね・・・説明は後半にあります。

はじめ、なんでめちゃくちゃに聴こえるのか、その理由がわかりませんでした。HDCDであることはすぐにわかったのですが、実は、このavexのアルバム群を聴くまで、HDCDにたいして悪い印象を持っていなかったのです。いや、悪いというよりも、いい方の印象をもっていたというほうが正しいでしょう。しかし、これらのアルバム群は、そうした印象を吹き飛ばしてしまいました。

これらのアルバムの音があまりに不可思議なので、すでに入手していた初めに発売されていたHDCD化されていないアルバムと比較して聴いてもみました。やはり、初めに発売されているアルバムのほうがちゃんとしていました・・・音のイメージはという意味ですが・・・。

このようなHDCD化されたアルバムの再生音について、不可思議な印象を得ることは、その後のアルバム群でも、変わらなかったのです。なんか・・・変・・・。

笑い話ですが、CD-12のデジタル出力の音のばらつきのため、大騒ぎをしているときにこの話題が追加になったので、もう、一時期はうんざりしちゃいました。なんのために苦労しているのか、わかんないですからね。


第14章 特別編 いける音は遠くない・・ オーディオの遍歴 INDEX !第16章 音楽よ、届け!


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