風になれ!

風になれというタイトルの由来は脚注1をご覧ください


あとがき

長文で、また、抽象的な内容なのにお読みいただき、痛み入ります。
本当にありがとうございました。

実は、このコンテンツは、02 いきなり深淵への誘い03 愛を超えてから先に作成しました。その前にも、何回か作成して廃棄するという繰り返しを致しました。書いた内容が難解であったからでした。そして、結局は苦労して作成したこれら2つの章を見ていても「あ、やっぱこれでも、本論まで読んでもらうこと、無理そうだな」と思いました。
その間、何人もの友人や知人が巻き込まれて、作成中のコンテンツの内容に従った話を聞かされ、反応を確認するということをしております・・・(^^;

そうまでして判ったことは、当初考えていた構成では、とても最後まで聞いてもらうことは難しかったことです。ですから、コンテンツとしてご覧になった方はなおさらのこと、最後まで読んでいただくことが難しいと思うようになりました。そこで、本論である01 さて、いきなり、本論!を導入として書き上げました。この内容は、注意して見ていただくとかるばどすほふ全体に散りばめられている話題を集約して、さらに書き加えた内容となっていることがお分かりいただけると思います。逆にいうと、01 さて、いきなり、本論!でご説明したような理解のしかたを当初からしていたことをおわかりいただけると思います。
01 さて、いきなり、本論!の書き方は、ご好評いただいているオーディオの遍歴の書き方を踏襲したものです。私が浜崎あゆみにたいしてどのように興味を持っていったかをご説明することで、背景をご理解いただく書き方です。結論だけを述べる方法を取っていませんので、読み物としてお楽しみいただけるかと思います。ただ、意図的に用語はインテグラル・セオリーで使用されている用語を使用することで、02 いきなり深淵への誘い以降への伏線としています。
どのようにものを感じ考えるかを明らかにするということは、自身の内奥を体系だって説明することが必要であり、02 いきなり深淵への誘い以降のようなヘビーな内容を用意せざる得なかったというのが、本音です。オーディオの話であれば、ここまで深く説明しなくても良かったと思いますが、音楽の感じ方と理解の仕方を説明する以上、深い説明になることは避けがたいことでした。

ところで、時々「なんでそんな深い聴き方をするの?」と聞かれることがあります。その答えは、趣味がオーディオであるため、になるのではないでしょうか。オーディオという趣味は、パッケージメディアとなっている音楽に命を与えながら楽しむ趣味であり、ライブの音楽を楽しむことと全く異なるものです。どのように音楽に命を与えるかは、再生側の考え次第なのですが、私の場合は音楽の性格に合わせて方向を定める傾向があります。性格には、音楽としての形と、音楽に内在されている形が、別々に存在しています。このコンテンツに書かれている内容は、音楽に内在されている形をどのように受け止めているかについて、集中して述べています。ですから、アルバムについて書いている内容をご覧になると全く異なる説明があるのをご覧いただけると思います。また、オーディオの遍歴浜崎あゆみに関連した部分をお読みになられると、さらに別な音楽を再生する側の側面が現れていると思います。
そんな私がライブに行くと、全く違う聴き方をしています。2001-2002カウントダウンライブに行った際は、首から双眼鏡をぶる下げて、他のお客さんと一緒にワーワー騒いでおりました(なんか、そんなもん下げているだけで十分に人と違うような気もするのですが・・・)。ですから、ライブはライブという聴き方をしております。

右の写真がライブを楽しむ時用に購入した、キャノン BINOCULARS10x30ISです。この双眼鏡は、倍率が10倍で、電動の光学式手ぶれ補正機構を内蔵しており、安定して見ている事ができます。率直なところ、立体映像として見える切迫した浜崎あゆみには、まいってしまいました。いいものを買ったと思いました。この双眼鏡を選ぶ際に、双眼鏡愛好会さんを参考にさせていただきました。ありがとうございました。

時々思うのですが、日本人てのは面白いなあと感じます。かつて、私たちのご先祖はお茶を飲んでは茶道、武術をしては武道と、すべて道にしてしまいました。道とは、一般的な意味では極めるという感じだと思いますが、用語の背景は、すべてに仏性とともにある以上なにをしていても悟りの道であるという感じがあります。そんな風に考える文化を持つ国は、日本以外知りません。現代において、そうした感覚は、日本のアニメーションやJPOPSに結実しています。日本のアニメーションが世界でもトップクラスとして認知されている背景は、その作りだけではなく、テーマとしている内容の深さがあります。例えば、一時期話題を集めていた新世紀エヴァンゲリオンは、ゲシュタルト心理学をベースにした設定とストーリーの展開をしていました。JPOPSにおいて、浜崎あゆみが表現しているものも、本人の意図は別として、そうした深さがあります。このような深さは、海外にあまり例が無く、私個人としては、将来において日本のアニメーションが築いたように地位に浜崎あゆみのようなJPOPSが到達しうるのではないかと感じます・・・(学芸会みたいなのも多いので、JPOPSすべてとは思いませんが・・・)
ところで、ホームページという性格上、読みやすさのため、本のように詳しい記述をして書き下ろすことができないため(そんなことしたら誰も読んでくれませんもの・・・(^^;)、書く側にもちょっとフラストレーションがありました。ですから、いくつかご説明を補足をしたいと思います。

さまざまな方がご覧になられていると思いますので、それぞれの方に合わせて、補足させていただきます。

こんな考え方、初めてだぜと思った方へ

このページを読まれて、きっと「こんな考え方、初めてだぜ」と思われた方、あられると思います。で、ちょっと最近の雑誌と、映画のパンフレットの一部をご紹介しちゃいます。えっ、と思っていただけたら幸いです。
千と千尋の神隠し パンフレットより
「この曲で世の中が変わるといい」 覚 和歌子(主題歌:作詞)

・・・・・
 人の意識というのは、いくつもの相があるということですが、この曲は、その最も深いところに繋がっているような感じがしています。また、聞いてくれた人の、一番深い場所に届いてほしいという期待を持っています。その部分が目覚めるということは、「生きている不思議=神聖さ」に触れることだと思いますから。大きなことを話すと思われるかもしれませんけど、一人でも多くの人が気づいて世の中が変わってくれたらと思います。そんな使命を持って生まれてきた曲?そうかも。この曲に限らず、実は私たち一人一人にもちゃんと使命はあると思いますけどね。(談)

まんま、インテグラル・セオリーを前提としているお話ですね。
sapio 2002/1/9号 より
「テロにも大恐慌にも負けない心を持て」より 池口恵観法主(真言密教・烏帽子山最福時)

左の写真はハーバード大学で講演後にニューヨークWTCで池口恵観法主が供養法要したときの写真です。

・・・・
 仏教には「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしつかいじょうぶつ)」という言葉がある。これは人間も動物も植物も、山も川も、行きとし生ける全ては「仏性」をもっている、という意味だ。また、この世のすべては根本仏、すなわち「仏の中の仏」の大日如来によってつくられたものであると同時に、大日如来そのものであるとする教えでもある。
 真言密教の開祖、弘法大師もあらゆる生命は大宇宙、大生命体である大日如来から生み出され、大日如来のもとに帰っていく御仏の子であると、説いている。私たちは本来が大日如来そのものであり、内面には仏たちの素晴らしい智慧と慈悲が備わっている。これが弘法大師の教える「即身成仏」で、私たちは皆、現世で仏になれるということなのだ。
人間を始めとする生きとし生けるもの全てが御仏の子であるという立場であるならば、人間同士が殺しあうことはもちろん、環境を破壊することも許されない、ということになる。21世紀に必要な理念は、この仏教の智慧である。
・・・・

ウィルバーがインテグラル心理学でいうところの、非二元段階を、(真言密教の)仏教用語で説明しているものです。
インテグラル心理学が明らかにするもの、それはあなたの日常と、あなたの内奥です。
そして、そのメッセージは、いつもあなたに届いています。

どっぷりと深い方へ

なぜ、ケン・ウィルバーが使用する用語をサブタイトルにしていない部分があるのか

サイキック(心霊)段階以後、サブタイトルにケン・ウィルバーの用語を使用していません。その背景は、いろいろな人と話していて、これらの用語に感情的な拒否感がある人が少なくない印象を持っているからです。また、日本ではアメリカよりも宗教的な用語が日常知られているため(悟りとか・・・一般的なアメリカ人には想像もできない概念です)よけいな誤解を招くことをさける必要を感じたからです。

そのため、サイキック段階以降の説明は、ケン・ウィルバーの著作に準拠しそのまま使用しているのですが、全く違った印象を与えていると思います。
心と身体を統べる力、ヴィジョン・ロジックの発露とその進展は、静かに訪れ、突然の輝きのように感じるという、一般的な印象があります。これはケン・ウィルバーもそう説明しているのですが、たいそうなことのように説明する傾向が、特に日本人にはあると思います。それは、日本における宗教的な用語と文化が思ったよりも普及しているためです。

なぜ、ケン・ウィルバーが使用していない宗教的コンテキストを使用しているのか

前節で述べたことと相矛盾する話題ですが、このホームページで使用している一部の宗教的コンテキストは、ケン・ウィルバーの著作からは意図的に排除されています。
その背景は、ケン・ウィルバー自身は語っていないと思うのですが、私の想像では、宗教的論争に関与することを防止するためだと思います。

欧米ではキリスト教/神学が基本となった体系が厳然として存在しています。この体系はケン・ウィルバーが強く批判するように、聖書そのものが伝えるイエス・キリストの言葉がすべての人を神の子と語っているにもかかわらず、神の子はイエス・キリストだけであるという体系に教義をしてしまい、現世における魂の救済の道を閉ざしてしまいました。ケン・ウィルバーは、これは他の宗教にはない閉鎖的な過ちであると述べています。ケン・ウィルバーがよく利用するのが禅宗的コンテキストです。

仏教に知識がない世界では、これはこれで良いと思うのですが、仏教が広く知られている日本では、禅宗的コンテキストはマイナーで、ちょっとやりにくいものを感じます。
それは、日本における仏教も、大乗仏教の広がりの歴史の中でキリスト教神学的構造を構築していると感じるからです。これを詳細に説明するよりも、客観的な表象の類似点を示すことで、その指摘としたいと思います。

?@ どちらも経典を直接学ばない
若い頃、聖書を読んだあと、街頭で見かける「聖書の言葉」として説明しているものが、新約聖書には書かれていないことに気づき、不思議に思い、説明で立っている人と話し込んだことがあります。そのとき、私の指摘に驚き、だして見せてくれたのが、教義の解説書でした。そこには書いてあるのですが、それは聖書ではなかったのです。私は驚いてしまい、聖書を読んだことがあるのか聞いたところ、その人にはありませんでした。これは、キリスト教の各教団では似た点があります。仏教も似た点があり、仏典を直接に読むということは少なく、様々な解説書で学んでしまいます。こうなる背景については、数百年前の過去においては仕方が無かったと思います。しかし、現代の教育レベルでは逆効果となります。
?a 神も悟りも彼岸の彼方にしている
経典を見ることがない中で、教えられている内容は、究極の概念への到達がすぐにはできないということを語ってもいます。いずれも、ずいぶん昔の世界観の中で、完全、とか、至高、を語るものですから、そりゃ、いつまでたっても到達できないと思いますが、そう教える本当の目的はそこには無いかもしれません。しかし、その世界観を見つめてみれば、そして、経典を見つめてみれば、そうした教え方がなぜ生まれるのか背景が確認できません。

簡単に述べると、日本の仏教的背景も、多くの場合はキリスト教的背景のように、現世における魂の救済の道を閉ざしている印象を拭うことができません。
仏教において、仏とは、悟りを開き輪廻を超越して現世に現れるもので、イエスが述べる神の子に相当する概念ですが、みなさんご存知のように普通仏様といえば死んだ人のことを日本では示しています。そして、この認識は、間違っていないと思います。
あるミュージシャンと、このコンテンツの予定している内容を話して、反応を見ていたときのことです。この人は、仏教の知識があったので説明が簡単でしたので、短い時間でかなり説明することができました。しかし、ケンタウロス段階の超越の説明のところで、私が予想しなかったシナリオを学んでいることに気づきました。それは、「悟りを目指して人生の精進を続けるのだ」と学んでいたことでした。仏教では悟ることで仏になります。つまり、人は生涯において仏になることはあり得ないと学んでいたことになってしまいます。これではキリスト教神学と同じ内容です。私は、その人が学んでいた法華経の経典からいくつかの説明をして、いろいろと話しましたが、ピンとこないようでした。困ったことに、やはり経典を直接読んだことが無かったのです。このシナリオのままでは、来世へ期待を寄せるしかありません。かくして、脱すべきとされる輪廻に無明の闇と伴に突入せざる得なくなります。何回も死んだ先に悟る/仏になるのですから、そりゃ大変です。その繰り返しは続きます・・・おそらく永遠に・・・。人はケンタウロス的苦悩から脱することすら不可能となるでしょう。
別な人の場合は、ケンタウロス的苦悩の意味は簡単に理解できたのですが、その先に行くことは「悟り」だといって、話すことを敬遠していました。無宗教な女性だったのですが、その反応に驚き、その友人に「なにか宗教やってるの?」と聞いたくらいでした。つまり、「永遠に得られない悟り」というシナリオを知っていたのでした。まあ、末法とはよく言ったものです。
このような議論に巻き込まれないように、ケン・ウィルバーは適切に宗教的コンテキストを選択していると思うのですが、そこで使用されている用語が、日本では文化的背景からブロックされている構造に引っかかる用語、つまり「悟り」などが登場しています。つまり、ケン・ウィルバーの使用する用語は、一般的に認知されている仏教用語から判断されてしまうと、それだけで受け入れが拒否されてしまう可能性が高いと思いました。思い切って、用語を全部変えちゃおうかとも思いましたが、それではインテグラル・セオリーで説明するという趣旨を反故にしてしまいます。また、そうした段階の知識も日本においても文化的に共有されていることを示す必要もあります。
そこで、どうせ引っかかるならば、より知られている用語にしてしまおうと、意図的に日本では良く知られている宗教的コンテキストを登場させました。ただ、誤解を招く危険な取り扱いなので、摩訶般若心経(般若経にはケン・ウィルバーも言及しています)の冒頭と、チベット密教のマントラに留めました。

見て、びっくりした方へ

あはは、びっくりしたでしょ・・・(^^)



脚注1

アルケミストというベストセラーがあります。そのクライマックスのシーンからこのタイトルをつけました。
「少年は大いなる魂に到達し、それが神の魂の一部であることを知った。そして、神の魂はまた彼自身の魂であることを悟った。そして、一人の少年が、彼自身が、奇跡を起こすことができると、知ったのだ。


その日、シマム(砂漠の激烈な嵐)はかつてないほど吹き荒れた。その何幾世代にもわたって、砂漠の最強の首領に挑戦して自分を風に変え、軍隊の野営地をほとんど破壊した少年の伝説を、アラブ人たちは語り伝えることになった」
(「アルケミスト」パウロ・コエーリョ著 山川紘也、亜希子訳、地湧社、P184-5より)


-広告について-

Google
  Web www.calvadoshof.com