風になれ!
いきなり深淵への誘い

01.さて、いきなり、本論!の続きです
2001/12/27,2002/1/15

風になれというタイトルの由来は脚注1をご覧ください

02
いきなり深淵への誘い

浜崎あゆみを語る言葉は、インテグラル・セオリー・・・
それがこのコンテンツの目指すものです・・・あはは・・・

なにを言っているのか判らないでしょ・・・
それをこれからご説明します。

率直な話、ちょっと長いです・・・で、ちょっと難解かも・・・でも、きっとあなたのお役に立ちます。
インテグラル・セオリー、それは理性と感覚(個)を統べる力を知り、それが自らであることを知ること(超個)をいいます。
浜崎あゆみの心の歴史を、そして、あなたの心の歴史を見つめてみましょう。
その歴史は、遠い昔から知られていた英知でもあり、そして、私たちがこれからも歩む道を示してもいます。
まず、はじめにご理解いただきたいことは、感じること、理解することの意味です。これは時代とともに異なっているのですが、そのことそのものが、あまり知られていません。
そして、現代において特長的な理解の仕方、科学的/還元的な考え方の特徴とその限界をご説明します。現代において、愛というラストホープ(最後の希望)に人がしがみつかざるを得なくなった悲劇の原因がそこにあります。
そして、人に必要なことは、科学的/還元的な考え方だけではないことを明らかにしていきます。そこにこそ、浜崎あゆみに多くの人たちが共感するキーワードがあるのです。

02.01 
感じること、理解すること・・・

なにかが気に入っているとか好きだとか、そうしたことは誰でも感じるものですが、その理由はどこにあるのか、なにがその源泉であるかについて考えることは、少ないかもしれません。でも、人は故無く感じることも、考えることもありません。人が感じ、考えることの背景を知ることは、物事を深く理解するためには、必要なことです。
結論を先に述べると、この背景は、時代とともに進歩を遂げており、現代は私たちが知るどのような時代よりも進歩を遂げているのですが、その代わりとして、私たちがまだ体験していなかった新しい問題に直面しています。
ここでは、そうした背景を直裁に説明していきます。

02.02 
あなたは、こんな発想、納得できますか・・・?
ガリレオ・ガリレイ
1564-1642
異端審判所(Holy Office)の
ガリレオ

昔の人は、私たちとちょっと違う考え方をしていたことをご説明してみたいと思います。以下に引用しているのは、ケン・ウィルバー著書(万物の歴史 P189)で引用している、自作の望遠鏡で木星の衛星を発見したガリレオ脚注3が、当時に異端審判を受けた際の話題です

この本は(ウィルバー)とq(質問者)との対話としてかかれています
w  ・・・ ここに私の好きな例があります。ガリレオが木星の月を発見したときの、それに対する有名な反駁です。これは当時、広く受け入れられ、権威があるとみなされたものです。
「動物の頭部という住居には七つの定まった窓が与えられている。その窓から空気は身体という礼拝堂に招き入れられ、光を与えられ、暖められ、滋養を与えられてる。さて、この小宇宙(ミクロコスモス)の部分とはなにか。鼻の穴二つ、両目、両耳、口であろう。同じように天という大宇宙(マクロコスモス)にも、二つの縁起の良い星、二つの縁起の良くない星、二つの輝く星(月と太陽)、どちらともつかない、つまらない水星がある。こうしたこと、また自然における同じような相似性から見て---例えば、いちいち説明するのも面倒であるが、金属も七つである---惑星の数は七であるはずだと推論できるのである」
q 身体に七つの穴がある、それゆえ惑星もまた七つである、ということですね
w ええ、言い換えれば、主観的な空間と客観的な空間の区別が非常に貧弱なため、一方で起こっていることは必ず他方を支配しているに違いないと考えるわけです。同じように主観的な空間と文化的な空間の区別が非常に貧弱なため、もしもその文化背景をも含めた教会の宗教に反対した場合、単に異端の徒のみならず、政治的な反対者とみなされるのです。異端者として教会で裁かれ、反逆者として国家に裁かれる。なぜならその二つが区別されていなかったからです。・・・

ここでケン・ウィルバーが説明しているような考え方は、昔は主流の考え方でした。
今でも、占星術、呪術の知識として、同様な考え方、つまり客観的な世界と主観的な世界を同一とする考え方が、現在もあります。
これは、当時としてはあたりまえの考え方なのですが、現代としてはちょっと?に感じられるのではないでしょうか。この違和感は、現代と当時の科学的な知識の違いからくるものではありません。当時だって、木星の衛星は科学的に確認することができたのです。望遠鏡は、もう発明されていたのですから・・・(ガリレオが使用したガリレオ型望遠鏡といわれている初期の望遠鏡はガリレオが発明したものではなく、それ以前に発明されていました)。この本質的な違いこそ、人の考え方の基本を成している部分の違いにあります。
当時の考え方の基本は、宗教や神があったわけですが、そのさらに背景に立ち戻れば、ケン・ウィルバーが指摘しているように、自身の中の主観的な観点と、客観的な観点がまぜこぜであったことがあります。
この問題は現代において、解決されており、主観的な観点と、客観的な観点は区別されています。ただ、ここにちょっと間違いが起きているのです。つまり、ガリレオの時代とは逆に、客観的な観点から主観的な観点を理解しようとする行き過ぎがあります。
客観的な観点、それは、科学的な考え方でもあります。

02.03 
意味の解釈が無い、科学的な考え方
科学には善悪といった意味の解釈ははありませんから、核兵器でも生み出してしまいます。

人類が誕生してから、かなりの時間が経ちました。そうした中で、現代文明は、特異な位置にあります。それは、18世紀以降大きく進歩した進歩した科学技術の考え方が、(最低限、西洋文明圏内では)人の考え方の主流を成しているということです。そして、そうした考え方はそれまでの人類の英知であったはずの道徳と宗教的基盤にも入り始めています。
私たちは、つい忘れてしまうのですが、人の権利が性別や財産により区別されること無く認められるようになったのは、20世紀に入ってからのことであり、それまで人はそうした考え方を持っていませんでした。この背景には、人の権利が、人に対して普遍的であるということ、そして、人とは性別や貧富の差により差別される理由は無いという考え方があります。この考え方を支えるものこそ、科学的な思考であり、現代民主主義の根幹をなしているものの考え方です。
最近のテロ事件によりクローズアップされましたが、タリバン政権下のアフガニスタンのように、男女同権についてまったく理解していないような社会がまだ多くあります。実際のところ、人権が万人にあるという、人によって差が無いという考え方は、歴史的には稀なものです。滅び去った共産主義の幻想においては、この考え方はより徹底されようとしていました。もっとも、現実には共産主義のもとでは、資本主義社会よりもひどい権力の集中と迫害を生んだようですが・・・。

余談ですが、タリバン崩壊後、欧米のメディアが女性の開放というイメージで報道していましたが、実のところ民族文化に対する文化的押し付け/侵略と捉えている人が、アフガニスタンには多いようですね。そりゃそうでしょうね・・・。

ちょっと余談にそれましたが、科学的な考え方とは、人類が時間をかけてやっと体得した比較的新しい考え方で、物事を事実の分析から還元的に考えて結論を見出すものであり、客観的に考えるものです。物事を理解するときに、物事を解釈するのではなく、還元することに特徴があります。私たちはそうした考え方に慣れていますが、ここ二百年くらいで急速に発達した考え方で、それまで私たちは主観的な世界感である、神の摂理や道徳という基準に基づいて解釈を中心に考えていました。

02.04 
解釈ではなく還元する、科学的な考え方

科学的な考え方は、物理的に確認できるような方法で物事を説明しますので、客観的です。主観的な考え方は、物事をどのように捉えるかという解釈に基づいていることに対して、科学的な考え方は解釈を行わず法則性を還元しながら見つけていきます。つまり、解釈ではなく、還元を行うのです。ですから、科学的な理解の中では、意味を主観的な観点から解釈することは可能な限り抑えられています。この考え方の徹底は時代とともに進んでいます。かつて科学的な考え方の先駆者であったコペルニクスもガリレオ・ガリレイも神の摂理を疑ったことはありませんが、現代の私たちは神の摂理の存在について?となっています。

これは、特に日本人において顕著であるといわれています。日本人は文化的伝統において多神教的ですが、より踏み込んでいくと、あらゆるものに神を見る傾向があり、多神教というよりも神を直接に認識しない傾向があります
脚注2。そうした文化的背景の中で、還元的な考え方が普及したのですから、神そのものについて根本的に?になることは、当然だといえるでしょう。

科学的な考え方は、客観的に考えるために、様々な利点があります。しかし、さまざまなことをつまり還元的に考えるので、人が感じること、理解する意味を、取り扱う考え方としては、不完全なものです。事実をあげつらうだけでは、解釈がないため、感じることも意味を知ることもできないからです。

02.05 
物事は善悪の性格をもたない

物事には、それ自体に善悪の違いはありません。
意味の解釈が伴うことで初めて善悪の違いも定まります。
もしも、あなたが子供から「なぜ人を殺してはいけないの?」と質問されて、言葉に詰まるとしたら、あなたの考え方は、かなり考え方が科学的な発想に従っています。子供の質問は「人を殺すこと」という行為について、意味を問うものだからです。言葉に詰まる背景にあるものは、意味の説明を求められたことにたいして、事実による回答を考えようとしたに違いないからです。行為の善悪は、意味の解釈により成立することであるのに、それを忘れつつあるから、回答に窮するのです。

余談になりますが、この問いに対する答えは、実はたくさんあります。
あなたの意識のありかたにより、解釈が異なってくるからです。詳細な説明は、後半に譲りますが、非二元的と呼ばれる意識の人の答えになってくると、「人を殺すことは自分を殺すことと同じだから、いけないことなのだ」なんて感じになってきます。読まれている方によっては、ピンとこないと思います。ですから、解釈が伴う場合は、感じ、考える人のあり方そのものが問われてきます。こうした話題の詳細は、次章でご説明しましょう。

現代において、科学的な考え方、つまり還元的な考え方は基本的な考え方の中心にあります。言い換えると、意味を解釈するということが行われない傾向が現代の考え方の基本にあります。より的確に述べると、現代において、意味の解釈を意識的に行わないために、解釈を自身で行わなかったり、不用意に人の解釈を自分の解釈としてしまう傾向が強いようです。

人によっては、出所不明の情報を友人からemailでもらい、なんの理由もなしにその内容を信じてしまうことなんてこと、ありますよね。そこには、こうした解釈不在の傾向が、原因として横たわっています。

02.06 
解釈と還元は異なること

意味を解釈することと、物事を還元して理解することの混同が、不可思議で無意味な話題が世の中に蔓延する原因ともなってます。

たとえば、浜崎あゆみの人気の秘密を調べようとアンケート調査をするとしましょう。で、いろいろな質問をアンケート対象の方にします。あなたは何歳?、男の子?、女の子?なんて感じです。そして、得られたデータを統計的に取り扱っていきます。マーケッティングリサーチの基本ですね・・・。

でも、このような分析は、アーティストの人気を分析するには、実は適切ではないのです。このような分析は、表層的な分析しか出来ないため、人気の秘密、つまり人気のある背景である、受け手にとっての浜崎あゆみの意味を知ることができません。なぜならば、受け手にとっての意味とは、受け手が浜崎あゆみをどのように解釈したかについてを知らなければならないのであり、客観的なデータの収集では、なんの役にも立たないからです。

解釈すべきものを還元しようとする過ちを犯すために、データを分析するという科学的思考では、答えを得られず、とんでもないことを言い始めます。浜崎あゆみは、なんだかわからないけど、若い女性のフッションリーダーみたいな気がするから「女子高生のカリスマ」だぜ、とか、めちゃくちゃな分析が、科学的という仮面の基に行われてしまいます。実のところ、分析者が勝手に思いつきで解釈しているわけです。科学的どころか、非科学的でもあり、解釈としても最低ですね。
そして、現代において、還元的に理解するという仮面をかぶった、このようないいかげんな分析は、表面的には科学的であるので、無批判に正しいのではないかと受け止める傾向が人にあり、やがて、それが真実であるかのように誤認されていきます。

余談ですが、私は浜崎あゆみのファンであるということを公言することで、相手が私をどのように思っているのかがわかるような気がします。私を信頼している人は、世の中の話では浜崎あゆみというのはちょっと変わった人気者みたいだけど、この人が言うのならそれだけではないのかなと思ってくれます。また、人によっては、世の中の話からすると、こいつは馬鹿だと思うのです。

本当に正しい反応は、浜崎あゆみの意味を自身で確認することなのですが・・・。
浜崎あゆみを例にしましたが、このような話題は現代において蔓延しており、いい加減に書かれている新聞や雑誌の記事が一人歩きしますし、マスコミは無意識的に(だから意図的なものよりも性質が悪い・・・)世論誘導をします。そうした方が、経済効果が高いからです。つまり、マスコミが儲かるからです。新聞や雑誌を売るために報道しているのですから、そうした行為は当然なのですが、受け手は、ずいぶんと簡単に、真実を知った気になってしまいます。別にオウム真理教やファシストでなくても、洗脳的な行為は行われてるのです。もっとも、それは受け手の問題であり、根本的には、科学的な分析、つまり還元的な考え方は常に正しいのではないかという、思い込みに本当の問題があります。

マスコミの手法として、一言でまとめると称する、めちゃくちゃな印象をアサインするという方法がよく使われています。「浜崎あゆみは女子高生のカリスマ」とか、「テロ事件はアメリカの覇権への挑戦だ」とかです。いつも、いい加減にしろよな思ってしまいます。

02.07 
科学的な思考による過ちも繰り返されている

実際のところ、科学的と称する考え方も、多くの過ちを繰り返しています。
たとえば、崩壊してしまったソビエト連邦では、科学的手法として農業の大規模集約化が進められました。つい30年位前は、農業はそうした大規模化ができなければ非効率であるために成立し得ないと信じられていました。そして、典型的な成功事例がソビエト連邦の大規模農業であると考えられていました。しかし、その実態は、大規模農業のあり方そりものが生態系を無視していたため、ソビエト連邦の農業は一時期は壊滅的な被害を受けてしまいました。推し進めた科学そのものに生態系の知識が欠落していたからです。広大な土地をそのまま綿花だけにするなど、狂気の沙汰でしたが、当時にはわかりませんでした。

近年日本で問題になっている狂牛病も似た話題です。肉骨粉を牛の飼料とすることは、狂牛病が知られる前であれば、科学的に合理的なものでした。もちろん、人が聞けば気持ちのいいものではありませんが・・・。そもそも、肉食という効率の悪い食事を行うわけですから、牛で食べることができなかった残骸部分を処理して飼料とすることは、合理的でもあったのです。ですから、狂牛病が知られた後であっても、牛以外には飼料として利用されています。

この文章を書いた時点ではそうでしたが、その後、全面的に肉骨粉の飼料としての使用は禁止されています。

これらの説明として、科学はまだ完成されていないという話題として今では語られていますが、そこには虚偽があります。そのような話題を述べるためには、科学的な知識が完全であることを証明する必要があるのですが、それは不可能だからです。つまり、科学の不完全を過ちの理由とするならば、科学的知識に従った行為は危険であるというのと同じ論点であり、自己否定しているだけだに過ぎません。もっと簡単に述べるならば、逃げ口上を語っているだけです。
しかし、科学的な考え方、つまり還元的に考えることにより、現代文明の基礎が築かれたのは事実です。そして、こので述べた科学の適用の問題は、科学を否定する話題ではありません。実際のところ、科学的手法はその分野では全く正しいものなのです。

02.08 
感じ、理解することは、還元だけではできない

キーワードは、ただひとつ、科学が常に正しいという話題が、正当ではないということなのです。つまり、科学には、正しい、誤っている、善、悪という議論が本来、適応しないのです。善悪はともかく、正しい、誤っているというのは言えると思われるかもしれませんが、それには前提が必要です。ソビエト連邦の農業の例では、効率的という点では正しく、環境的であるという点では誤っています。ですから、常に、という用語は結局のところ使用できません。
そもそも、正誤、善悪、美醜などは、解釈の問題であり、還元して得られるものではありません。科学的な思考が還元である以上、混同して考えてはならないのです。
ものごとを感じ、理解するためには、還元的に考えるということだけでは、まったく方手落ちです。

02.09 
感じ、理解するための4つの側面

これまで述べたように、感じ、理解すること、つまり認識することについて、あまりに考えなく受け止めているため、さまざまな混乱が生まれています。
認識とはなんであるかを理解するために、2つの観点、
「内面的で解釈に基づくものなのか、外面的で還元に基づくものなのか」
「個的なものなのか、集合的なものなのか」
という、基本的な視点を明確に意識することが重要です。
これを表にすると下図のようになります。

出典 ケン ウィルバー著 万物の歴史 P-110
他にも、進化の構造などでもこの図は使用されています。
ケン・ウィルバー(Ken Wilber)

この図は、ケン・ウィルバー(Ken Wilber)がこのような認識の問題を説明するために使用している図です。この図の特徴は、人が考え出した様々な知識の体系を、その特徴を明らかにして、わかりやすく理解することができる点にあります。ken Wilberの努力により導出された図で、簡単な図なのですが、私たちの知る膨大な思想体系や知識の体系がこの図の中に配置できることが確認されています。

人が認識できるあらゆるもの、それをすべてホロンといいますが、それらをこの図の中に配置することが出来ます。
この図は、ホロンを認識する際に2つの観点の組み合わせ、つまり外面的ー内面的、個別的ー集合的という観点の組み合わせから、4つの象現に分割することができることを示しています。あらゆるものごとや考え方(いずれもホロン)はこれらの意味を必ずもっており、この図はそれらをどのよう立場にあるかを明らかにして認識する際のキーワードとなります。

この図で、右側にあたる部分、つまり外面を示す部分に分類されるものは、観測することができます。客観的な事実として認識することができるものです。
そして、左側に分類される内面に分類されるものは、観測することができず、解釈することしかできません。つまり、主観的な事実です。

客観的な事実も、主観的な事実も、ともに事実です。ひょっとすると、皆さんの中には、主観的な事実という用語がはじめての方がいらっしゃるかもしれませんが、主観的な事実という考えかたは重要な考えです。これらの関係を、ケン・ウィルバーは人の脳と、人が考えていることの関係を例にして、とてもわかりやすく説明しています。
彼にいわく、人の脳を大脳生理学者が様々な機器や方法で脳を調べていても、調べられている人が考えている内容は、直接に話して解釈しない限り大脳生理学者にも理解できません。人の認識と脳とは、同一のことを示しているはずなのですが、そこには2つの側面が必ず存在しており、互いに犯しあうことができないのです。
例えば、私が浜崎あゆみの音楽を気に入って聴いているとき、私の脳を分析すればそれに対応した活動をしていることを見て取ることができますが、では、私がどのようにその音楽を受け止めてるのかは、私が説明しない限り、気に入っていることですら知ることができません。

つまり、1つの認識には、ここで述べたような4つの側面のいずれか、もしくは複数の側面があり、互いに独立して、正しさがあるのです。一方の正しさが他方の正しさを犯すことはありません。

たとえば、浜崎あゆみの人気をアンケートで分析するという試みは、客観的に社会的なものとして分析することになりますので、図の「右下」に位置します。そして、私が音楽を聴いた感想を述べるとき、それは個人が主観的に述べるものですので、図の「左上」に位置します。このことから、同じように浜崎あゆみを述べたとしても、全く異なる側面を述べていることがわかります。ここまで読まれた方は、なにを当たり前のことを思われると思います。しかし、ここに現代を理解する鍵があります。

現代において、このように全く異なる側面を述べているにもかかわらず、「右側」の観点で「左側」の観点を述べようとする傾向が強くなっているのです。
今述べた例でいえば、私は男性で中年なのですが(これは右上の観点で自分を説明しており、左上の観点では青年なのですが)、アンケート結果で女子高生から強く支持をされている浜崎あゆみのファンであると述べると、右側の観点を優先的に考える人たちからは、?、に受け止められることが多いという事実があります。
この背景には、還元的に考えることを優先するという、現代における考え方の傾向に原因があるのです。つまり、アンケート結果と私にはなんの関係も無いにもかかわらず、「左上」の観点で語る私を、「右下」の観点であるアンケート結果から理解しようとする傾向があるのです。つまり、解釈を必要とするものごとに対して、還元によって臨むという間違いがおきています。
この問題が、ケン・ウィルバーが警鐘を与えている「解釈の無い(意味を失った)世界観の蔓延」を端的に示しています。

02.10 
ビッグ・スリーと、「それ」という考え方に侵食されてしまった現代

これらの考え方を理解するすること、つまりそれぞれの分野の違いを理解することは、実はとても簡単です。私たちの言葉では、主語がそれぞれの分野で違うのです(日本語、英語いずれも同じ違いがあります)。
意思的な、個人の主観に基づくものの場合、「」という主語を使用することが出来ます。そして、私が複数集まると、「私たち」という主語になります。私たちという主語の話題は、解釈することにより理解することができます。
そして、客観的なものの場合、すべて「それ」という主語で説明することが出来ます。それという主語の場合、還元することにより理解することができます。
ここで出てくる、以下の3つの主語を、ビッグスリーといいます。


私たち
それ

この違いは、下図のように3つの分野に分類することができます。

この中で、それ、により示される考え方が、現代の主流となっているのです。つまり、還元して理解することですべてを理解しようとする傾向が極めて強いのです。
このような状況は、18世紀末から発生したもので、人類史上特異な状況であるといわれています。この状況に至った背景は、産業革命にあると指摘もされています。科学は、18世紀以前からも存在していたからです。そして、本当に科学が発達したのは、18世紀以降でもありましたし、産業革命がもたらした成果により社会は大きく変わってきました。
科学の発達の背景には、人の知恵が、これら4種類を分離して考えることが出来るようになったことにあります。
すでにご紹介したように、ガリレオ・ガリレイの異端裁判が行われたころ、人はこれらをまったく分離して理解しておらず、ガリレオ・ガリレイは科学的な成果を、宗教的な異端裁判、そして国家への反逆としてまぜこぜにされて、裁かれてしまいました。
ケン・ウィルバーが紹介しているガリレオに対する反駁は、宗教界からの政治的なこじ付けではありません。その背景こそ、当時の人々が、自分と他者、自然を分離して考えることが出来なかった精神的な状態を物語っています。私たちは、このような考え方を先に進めて、現代の考え方に到達したのです。現代の考え方を、モダニティ脚注4と呼びます。

■関連する話題として■
日本で行われた若年者による猟奇的殺人事件、酒鬼薔薇聖斗と自称した中学生による連続通り魔殺人事件で、犯行者が「バイオモドキ神」という(彼にとっての主観的)存在と自分の関係で、犯行の理由を説明したことに当惑した人が多かったと思います。本人が至っている精神的な状態が、まだモダニティに到達していない場合、モダニティの観点からそれを理解することは不可能です。心理学者がどのような分析を行っても、つまるところ人格異常とか、病気なのか病気でないのかも説明できない状態となります。
心理学が立つ科学的な世界観の背景には、意味が存在していないので、正常/異常という判定をすることは、本来的には出来ません。現代の社会ルールのすべてが、この科学的な背景があり、すべてに対して平等を保障した結果、私たちは戦慄すべき問題点に直面したわけです。これは、平等を否定した説明ではなく、平等を支えるために、私たちは、意味を理解するより進んだ観点と、様々な人たちがそうしたものを共有することが急務となっていることを示しています。

現代の科学的進展は、この分離に成功したからですが、ここで過ちが生まれてしまいました。
つまり、科学的な考え方「それ」に基づく考え方で、「私」や「私たち」を理解しようとし始めたのです。この試みは無謀でした。なぜならば、意味は解釈される必要があるもので、観測することが出来ないからです。人の怒りや緊張をアドレナリンの分泌で語るという無謀な道に入ったところで、なにも得ることが出来ないからなのです。
すでに説明しましたが、ちょっとしたあなたの反応による実験で、どれだけモダニティがあなたの中心にあるのかを、簡単に確認できます。

あなたは、「なぜ人を殺したらいけないのか」の説明はできますか?
あなたは、「人はなんのために生まれてきたのか」の説明はできますか?

これらの問いは、「それ」の世界の言葉では、説明が出来ません。しかも、この質問そのものが、「それ」の世界から発せられたものでもあります。
そして、これらの問いかけの答えは、「それ」の世界にはありません。
善い、悪い、なぜ、なんのため、という問いは、本当は 私たち から発せられ、私たち が答えなくてはならないのです。
あなたが、これらの説明に窮するならば、あなたのものの考え方は「それ」の世界に深く蝕まれているのであり、そしてそれが現代の病巣なのです。(そして、きっと多くの人が窮すると思います・・・)
それ」で表される言葉と考え方には、解釈が伴わないので、意味はありません。
事実を述べるのみであり、観測だけで、解釈が無いからです。
そのような世界観の基では、人生は無味乾燥となり、道徳と宗教は空虚になります。そして、神は死に絶え、地上の光はわずかに「愛」だけになってしまいました。それが現代の病巣なのです。
しかし、その「愛」ですら、なにものも救い得ないとしたら・・・「それ」により還元されていく私たちの世界に救いなど見つけることはできません。

そして、そうした状況は、子供でも理解しているのです。どのような愛であっても、人の死と苦しみの超越には役立たないことを・・・。なぜなら、人は愛を、人類の生誕以来忘れたことなど無いからです・・・。現代において、私たちの心が最後の砦とした「愛」は、実は人から離れたことはありません。最も古く、最も近しく、そして頼りない最後の砦なのです。

02.11 
愛にしがみつく現代の悲哀

人類がはじまってから、音楽の歴史は続いていたのではないかと思います。
そうした音楽の中で「愛」は大切なテーマでした。

しかし、唯一のテーマになってしまったのが、現代です。

あらゆるPOPS、歌謡曲は愛をとても大切な、おそらく唯一のテーマにしてます。
そこには「売れる」というマーケティング的な背景もあります。売れるのは、当然でした。人は愛を忘れたことはありませんでしたし、私たちが拠って立つ、ラストホープ(最後の希望)でもあったからです。しかし、現代において愛だけを、すべての救済を求める対象にしまったのも、悲しい事実なのです。

現代に作られる様々な芸術の多くは、愛だけがテーマになってしまいました。
しかし、これは人類史上、はじめてのことでした。私たちが知る芸術の始まりは神や神に対する祭祀から始まっており、18世紀くらいまでは、人の関心の集中は、真実、真理、神であったのです。すでに説明したように、このような中で科学的な考え方、「それ」の文化の侵食により、それまで確立されてきた、真実も、真理も、神も、失われてしまったのです。
しかし、そうした状況は退歩を示していたわけではありませんでした。

18世紀以降、人類はそうした進展の中で、万人の平等、進歩した科学文明による餓死から離脱しうる道への選択肢を得ました。この数世紀で、私たちは物質的には豊かになってきました。これは、旧来には達成できなかったことです。たとえば、現代に言われている食糧危機は、もはや生産の問題ではなく、食肉のような効率の悪い食文化に、豊かさの達成とともに移行しつつあることから生まれつつあります。

また、これは精神的な豊かさを失ったことを示してもいません。
詰るところ、それまで人を支えていた精神的なものでは、現代の物質的な進歩に対応できなくなってしまっただけのことです。私たちには、旧来よりも進歩させた精神的な支えが必要なのです。そして、その探求に、意味を明らかにすることが出来ない科学的な方法を採用したために、精神的な世界を空虚な意味の無い世界にしてしまったのです。このような過ちは、私たちには必要なことでしたが、それは脱する必要があります。

人の心の中には、それをあからさまに指摘する動きがあります。このままでは、いけない・・・と。

そうした中で、今までの考え方から見つけられたラストホープ(最後の希望)が、「愛」でした。人類は、愛を失ったことなど、一度も無かったのに・・・。

現代において、愛をテーマにする傾向は、音楽にも多く現れています。これは日本だけではなく、全世界で共通の話題でもあります。

過去200年にもおよぶクラシック音楽から現代の音楽に至る系譜の中で、現代ほど愛・・・というか、恋の音楽が中心になっている時代はありません。それは、確かに私たちにとって普遍のテーマですが、そう、人が生きている以上、常に普遍なのですが、それだけの「はず」では無かったのです。でも、現代は「愛」だけの時代になってしまいました。
高校を卒業したくらいの歌手が、恋いの悲哀を歌い、中学生くらいの子達が、恋いの喜びを歌う。別に、それでいいと思いますが、しかし、それでけであるならば・・・あまりにも、おかしい。そして、今はそうした状況にあります。しかし、人は愛や恋にだけ、焦がれているわけだはありません。あなたの悩みは、愛や恋だけではないのですから、だれにでも理解できることです。

この意味を見失ってしまった現代における苦しみと異常さこそ、多くの人たちが、なにかおかしいと感じている、なにかを見失ってしまったと感じている、本当の背景です。

02.12 
若い人たちが暗闇の中で見つけた小さな灯火、浜崎あゆみ

現代において、発売されているアルバムにあるすべての曲が恋や愛の歌である異常さ・・・それが今の時代の音楽シーンの実態です。この狂気に気付き、愛や恋ではない、違うものに反応することは、自然なことです・・・。

この問題は、若い人たちほど直感的に理解できると思います。学ぶごとに、社会を垣間見るごとに感じる暗闇、どうしたらよいかわからない不安感。実は、現代の教育であればあるほど、この問題を内在させています。おそらく、ここ50年間の教育の歩みで、最大の問題点が、還元に基づく教育を中心に据えたため、意味を欠如させてしまったことにあります。

浜崎あゆみは、そうした中で、自身も苦しんでいるその世界を、その有様、そして自分が見つけた僅かな灯火と指標を、率直に歌い上げただけです。

でも、それは多くの「売りたいだけの歌手」には出来ないことでした。アーティストが自己の内奥を率直に表現するものであれば(詳しくはをアーティストと歌手の違いご覧ください)、浜崎あゆみこそ、本人の意思とは関係なく、より本来のアーティストの立場に立ち返っていました。「」に彼女は拠って立ったからです。

そして、彼女がテーマにしたもの、それは「私たち」でもありました。それが、浜崎あゆみの音楽に対する共感の源泉です。

浜崎あゆみのあり方は、旧知であった音楽が売れる原理から離れていました。しかし、売れることを考えて音楽作ること、つまり芸術が産業であると思うことこそ、「それ」の考え方を「」の世界に持ち込んでしまった、現代が犯してしまった過ちであったのです・・・。誤ってしまった専門家達、つまり音楽の専門家と称する人々に、はじめ浜崎あゆみの人気の理由が理解できなかったのは当然でした。すでに、「それ」の世界の住人となり、「」から発されるいくつかの心の反応には、自身が鈍感になってしまったからです。

この点については、将来により深く広範に述べたいと思います。
現代クラシック音楽が滅びつつある現状の背景と、技術的にも音楽的にも稚拙に過ぎないロックやポップスが、なぜ現代では人々が支持するのか・・・その理由のほとんどが、音楽専門家そのものが「」の世界に音楽技術という「それ」を導入しただけではなく、蝕まれてしまったために、人がそっぽを向いてしまったという事実があります。現代のクラシック音楽ほどを「」を見失っている音楽は、他には例を見ないでしょう。滅びゆく音楽であるクラシック音楽の中でも、人々は「」をベースにしたアーティストを支持しつつあると思います

歌手としてデビューしたときに、芸能界に絶望してもはや失うものが無くなっていた浜崎あゆみ脚注5には、希望もなく、賢く立ち回ることではなく、自身の求めるままにして滅びてもいいという精神的な背景から、自分の内奥の声を歌い上げることが出来たのではないでしょうか。
これが、浜崎あゆみがヒットした、本当の理由であると私は考えています。
浜崎あゆみは、現代日本が抱えているモダニティ脚注4のもたらした巨大な暗闇に、マッチ一本かもしれないかもしれないけれども、明かりを灯したのではないかと思います。その明かりは、純粋にその恐怖に怯えていた若い世代には、大切なものでした。

恋の歌も、愛の歌も希薄な浜崎あゆみの音楽、しかし、人を信じることに目覚め、人生を先に進めることを決意する、浜崎あゆみ、そこに感じる真実に、多くの人が共感し、支持するものがあるのです。だから、浜崎あゆみに、建前を語るとこは許されないでしょう。その瞬間に、彼女はアーティストとしての存在価値を失うのかもしれません。そうした日は、すぐにあるのかも知れず、それだけが私を心配させることでもあります・・・。でも、そのまま進めば・・・それがこのコンテンツの唯一の存在理由です・・・。

I am ... が出ました。この心配はもうありません。
ゴメンナサイ、ココの部分、だいぶ前に書いたものですから

浜崎あゆみを支持する若い人たちこそ、直感的に現代の問題点を感じた人たちではないかと、私は考えています。人には、根本的な、すべてを正しい方向に向かわせる力が常にあります。人も、すべてのものも、世界の真実から、離れて存在したことはないのだから・・・。

今生きている人のことだけ考えても、この星で生命が生まれてから、十数億年に渡って一度も途切れなく命が続いているから、今があります。この背景に、それは単なる偶然と考える「それ」の考え方に意味を求めるのか、その奇跡の意味を「愛」やその他の意味に求めるのか、ここに解釈という、大切なものがあります・・・。そして、「愛」の彼方の意味があることを理解していきます。


続きは 風になれ! 03 愛を超えて をご覧ください

脚注1

アルケミストというベストセラーがあります。そのクライマックスのシーンからこのタイトルをつけました。
「少年は大いなる魂に到達し、それが神の魂の一部であることを知った。そして、神の魂はまた彼自身の魂であることを悟った。そして、一人の少年が、彼自身が、奇跡を起こすことができると、知ったのだ。
その日、シマム(砂漠の激烈な嵐)はかつてないほど吹き荒れた。その何幾世代にもわたって、砂漠の最強の首領に挑戦して自分を風に変え、軍隊の野営地をほとんど破壊した少年の伝説を、アラブ人たちは語り伝えることになった」
(「アルケミスト」パウロ・コエーリョ著 山川紘也、亜希子訳、地湧社、P184-5より)

脚注2

神を非二元的(ここでは、神と人や自然を区別しないという意味です)に認識するという感覚は、世界的にはとても特異なものなので、そのうちより詳しく説明してみたいと思います。この背景には、日本人が縄文時代から旧来から持っていた世界観と、その後に渡来した仏教的思想の強い影響があると思います。

脚注3

ガリレオ・ガリレイ/Garileo Galilei (1564/2/15〜1642/1/8 )
ピサ生まれの物理学者、天文学者。 1609年にガリレオ式望遠鏡を製作し(発明はガレリオでははありません)、1610年『異界からの報告』を著しました。また、木星の衛星や太陽の黒点を発見しコペルニクスの地動説を証明しました。1616年の異端審問裁判(宗教裁判)で地動説の禁止が申し渡されています。その後も活動を続け、1632年に出版された『天文対話』によって宗教裁判を受け著作は禁書となり、地動説の放棄を命ぜられました。同時に国家からも反逆者として扱われましたが、終身刑から軟禁に減刑され、『新科学対話』がオランダで出版されました。
この話題は、宗教の横暴として教育されていますが、ここで紹介しているように、宗教が科学を迫害しているというよりも、当時の人々の世界観と合わないことと、その事実が国家に対する反逆と同一に考えてしまう当時の人々の考え方を理解することが必要です。当時の文献の多くは、このような展開が多くあります。

脚注4 モダニティ

科学的世界観により築かれてきた現代化全体を示しています。
モダニティは、ビッグスリーを独立して理解できるようになった現代において進展しましたが、問題点は本質的には並立しているビックグスリーを統合することに、人が失敗していることにあります。多くの場合は、科学的な世界観による還元的な考え方、意味を識別できない事実を分析するための観点を、様々な意味を定めてしいる個人の内面や、社会的道徳/ルールに適用してしまったため、現代の意味を喪失してしまった時代の背景としてしまいました。モダニティという言葉には、このような病理的な状態にある現代を示す言葉でもあります。

脚注5 浜崎あゆみの歌手デビュー

九州でモデル等をしていた浜崎あゆみは、芸能界デビューをサンミュージックから果たしました。このホームページでは、浜崎あゆみの顔が入れ替わるになっていますが、その一枚は彼女が九州時代にモデルとして出た際のポスターから転用しています。この時代に、サンミュージックの人材発掘スタッフに対して、九州の関係者たちは浜崎あゆみでない人物を強く勧めたそうですが、サンミュージックが選んだのが浜崎あゆみであったそうです(この話は当時の関係者の話を、そのお姉さん経由で聞きました)。
サンミュージックでは、俳優として彼女をデビューさせましたが、やがて浜崎あゆみはそうした生活からの決別を内心に定め、契約が自然解消するまで仕事もしないで、渋谷を遊んでいたといいます。
そうした中で、偶然彼女を見つけたのが、avexのマックス松浦で、偶然が重なり2回目に会った際に、歌手になることを強く勧め、繰り返しの勧誘の中、遊びに飽きた浜崎あゆみが携帯電話でまたまたの勧誘に応じたことが、デビューのきっかけでした。
このような背景で、浜崎あゆみは、歌手になりたいわけでもなく、失敗するなら自分で思うままにしたいという決意の中をもって、自身の音楽活動に入っていきました。マックス松浦が最近明らかにしているのですが「彼女のアルバムのプロデューサーは私の名前にしているのですが、実際のところ、セルフプロデュースだといったところでだれも信用しないのでそうしているだけです。彼女の場合。彼女がすべてを最終的に決めています」と説明しています。


-広告について-

Google
  Web www.calvadoshof.com